石川町の車橋はどうして車橋なのか?
ココがキニナル!
中村川にかかる「車橋」はなんで車橋って言うんですか?ネットで調べても中々出てこないので、ちょっとお願いしたく思います!(mamofuru1さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
史料がないので、正確な由来は分かっていないが、吉田新田から荷物を運ぶ大八車が通れるように造ったという仮説が有力のようだ
ライター:田中 大輔
横浜市には、道路局が管理しているだけで、およそ1700の橋がある(平成23年度末)。今回はそのうちのひとつ、車橋が主役。その名前の由来を調査してきた。
車が通っていたからなのか、あるいは周りに車に関するなにかがあったのか。
下調べは不発・・・
手始めにインターネットで下調べをしてみるものの、キニナルにあるようにコレと言っためぼしい情報は見つからない。
名前の由来はおろか、いつ造られた橋なのかもよく分からないという事態にちょっと心配になってしまう。
横浜以外にも、大分県由布市や東京都多摩市にも同じ名前の橋があることが分かったくらいで、核心に触れるどころか、かする情報すら見つけられない。
そんなわけで、ほぼ丸腰の状態で調査をスタート。
まずは現地へ向かい、地元の人に話を聞いてみるところから始めてみよう。
ならば地元の人に聞く!
大岡川の支流、中村川にかかる橋のひとつである車橋。
JR石川町駅から川沿いを歩いていき、亀の橋や翁橋を通り過ぎた先にある。
現在の車橋。上を通っているのが首都高
長い橋ではないが、2車線プラス両側に歩道と幅がけっこう広い。
さっそく情報を求めて、地元の人たちに聞き込みをしてみた。
1945(昭和20)年からこの辺りに住んでいるというタカナシさん
年配の人や、昔からやっていそうなお店を中心にヒアリングをしてみたものの、由来を知っているという人はゼロ。
川沿いを歩いていたタカナシさんも「いやぁ、聞いたことないなぁ」。
話を聞いた人が、あの人なら知ってるかも、と次々に歴史に詳しそうな人を紹介してくれたが、どの人も「分からない」。
残念ながら、インターネットに続き、地元での聞き込み調査も空振りに終わってしまった。
ハマの橋博士に聞いてみる
ここはやはり、蛇の道は蛇。
橋の専門家に話を聞こう、ということで、はまれぽでもおなじみのあの方を訪ねた。
はまれぽ4度目の登場となる松本さん
横浜市道路局の橋梁(きょうりょう)課に勤める松本さんだ。
「横浜で最も古い橋は?」や「鶴見のめがね橋は目が一つしかないけどなぜめがね橋なの?」などでもお世話になった、この道20年の大ベテランだ。
さっそく由来について尋ねてみたが、そんな松本さんをしても車橋の由来は「分からないんですよ」。
松本さんによると、今ある車橋は3代目で1989(昭和64)年1月7日、つまり昭和最後の日に完成したものなんだそうだ。
川の上を走る首都高の工事にともない、架け替えられたものとのこと。
そのひとつ前の車橋は、関東大震災の復興時に10万円をかけて造られたそうだ。当時の10万円と言えば、かなりの額だったはず。
こちらは1927(昭和2)年9月に完成していて、このときから鉄筋コンクリートの造りになっている。
関東大震災からの復興事業がまとめられている『横浜復興誌』
ところが、この2代目、3代目の車橋については記録が残っているのだが、肝心の初代のことが分からない。
いつ造られた橋なのかもハッキリ分からないそうで、名前の謂われについても史料は残されていないということだった。