かつてあった伊勢佐木町の名門・野澤屋。その栄枯盛衰を教えて!
ココがキニナル!
今は見る影もなくなってしまった、伊勢佐木町の名門・野澤屋について詳しく知りたいです。もとは野毛山一帯も茂木家の邸宅だったそうですし、現在tvkの場所が創業だとか・・・。(Katsuya30jpさん)
はまれぽ調査結果!
野澤屋は群馬出身の茂木惣兵衛が創立したお店。のちに横浜松坂屋になり、伊勢佐木町のシンボルともなった。
ライター:松崎 辰彦
野澤屋の歴史を振り返る
伊勢佐木町の顔である横浜松坂屋が惜しまれながら閉店したのは2008(平成20)年10月26日。創業144年の幕を降ろした。
閉店の日の横浜松坂屋前
(『OLD but NEW イセザキの未来につなぐ散歩道より)
横浜松坂屋は、かつてはノザワ松坂屋であり、さらにその前は野澤屋であった。こうした社名変更の背後には、創業当時からあった名古屋資本との姻戚関係や、大正年間からの松坂屋との協力関係が時代とともに密度を増している事実があり、横浜駅西口の高島屋やそごうといったライバルたちとの競争も、容易ならざるものであったことが推測できる。
ここでは横浜・弁天通りの店舗からスタートし、後に伊勢佐木町のシンボルといわれるまでに成長した、日本の百貨店の先駆けである野澤屋の歴史を振り返ってみたい。
創業者・茂木惣兵衛
野澤屋の創業者、茂木惣兵衛(もぎそうべい)は1827(文政10)年、現在の群馬県高崎市に生れた。生家は質屋であった。11歳のときに呉服商に奉公して商売の道を学び、10年後には支配人に抜擢された。1854(嘉永7)年には高崎で商売を始めるに至った。
創業者茂木惣兵衛(『野澤屋から横浜松坂屋へのあゆみ』より 画像提供:イセザキ・モール1・2St.)
33歳のとき、横浜・弁天通りで雑貨商を営んでいた武蔵国児玉郡(現埼玉県)出身の商人である野澤庄三郎の店、野澤屋に人の紹介で勤めることになる。生糸の仕入れや売込みに力を注いで、当時沈滞していた野澤屋はめきめきと大きくなり、横浜でも屈指の店になった。
1861(文久元)年、店主野澤庄三郎死去。その後、惣兵衛は独立し、弁天通4丁目(現2丁目)に自分の店舗を構える。屋号はかつてと同じ野澤屋呉服店とした。1864(元治元)年のことだったが、のちの野澤屋(横浜松坂屋)はこの日を創業の年としている。
開業当時の錦絵。 現在の横浜メディア・ビジネスセンター付近 (画像提供:イセザキ・モール1・2St.)
惣兵衛は商売に関してはまことに優秀な人物であったようで、その後いよいよ頭角を現し、業者間の信頼も厚く「茂木王国」と呼ばれるほどに発展したという。
1910(明治43)年、伊勢佐木町1丁目に支店を開店。
1919(大正8)年11月、世界的大恐慌が起こり、野澤屋呉服店も危機に瀕したが、名古屋資本からの助けを借り、存続の道を確保した。1921(大正10)年7月31日、株主総会を経て資本金100万円の株式会社に改組して商号を株式会社野澤屋呉服店とした。
震災と戦争に見舞われる
1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生し、伊勢佐木町一帯は火の海となった。野澤屋も木造部分はすべて消失した。幹部は協議を続け、市民に日用必需品を安価に販売し、焼け跡に仮建築を進めるなどして復興に努めた。
また本牧臨時出張所や東京営業所などを閉鎖して、すべての力を伊勢佐木町に集中させ、1926(大正15)年には鉄筋コンクリートの新館も完成させた。
1928(昭和3)年、社名を株式会社野澤屋と改称。商品内容も充実し、日本の百貨店の先駆けとなった。横浜駅・桜木町駅・野澤屋間で、顧客を送迎するバスを運行する。
市民から親しまれた野澤屋の送迎バス(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)
野澤屋の送迎バスと車掌。横浜駅東口(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)
野澤屋の配達所(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)
太平洋戦争が勃発し、4階以上を軍需工場に貸したので売り場面積は6割に減少。終戦後は米軍進駐軍の接収を受けたが、1955(昭和30)年には全面接収解除。
1955(昭和30)年全館復旧(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)
1974(昭和49)年3月1日、社名を野澤屋からノザワ松坂屋に変更。その背後には松坂屋の野澤屋に対する多大な資本関係があった。1977(昭和52)年には横浜松坂屋となる。
アールデコ調の外観
一方で横浜駅周辺には横浜高島屋などの競合店が大きく業績を伸ばしていた。集客を大きく奪われた横浜松坂屋は2003(平成15)年、松坂屋の完全子会社となって対抗するが、厳しい経営環境が続き、また建物の耐震性の問題もあって、2008(平成20)年10月26日、惜しまれつつ営業を終了、閉店した(かつては系列会社だったイリクストアも、現在イオングループ傘下に入っている)。
──以上が野澤屋の誕生から横浜松坂屋として伊勢佐木町で終焉を迎えるまでの経緯である。