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かつてあった伊勢佐木町の名門・野澤屋。その栄枯盛衰を教えて!

ココがキニナル!

今は見る影もなくなってしまった、伊勢佐木町の名門・野澤屋について詳しく知りたいです。もとは野毛山一帯も茂木家の邸宅だったそうですし、現在tvkの場所が創業だとか・・・。(Katsuya30jpさん)

はまれぽ調査結果!

野澤屋は群馬出身の茂木惣兵衛が創立したお店。のちに横浜松坂屋になり、伊勢佐木町のシンボルともなった。

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ライター:松崎 辰彦

耐震性の問題が大きかった横浜松坂屋の閉店



幕末から現代へと、まさに横浜の歴史とともにあったような野澤屋。伊勢佐木町における存在感は、やはり大きなものがあった。

投稿者も述べるように、茂木惣兵衛が最初に店を構えた弁天通りの場所は、現在のtvkや神奈川新聞がある横浜メディア・ビジネスセンター(太田町2丁目)である。横浜の近代化とともに、野澤屋の成長そして終焉もあった。
 


震災後のバラックから鉄筋4階(一部5階)建ての本建築完成(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)


イセザキ・モール1・2St.専務理事で企画宣伝委員長の石田隆さんは、元横浜松坂屋販売促進部長。当時の思い出を語っていただいた。

「横浜松坂屋に関して、年とともに経営環境が悪化して閉店したとお考えの方も多いでしょうが、決してそんなことはありません。明治末期から大正・昭和と横浜最大の繁華街として栄えてきた伊勢佐木町の中心百貨店・野澤屋は多くのお客様のご愛顧をいただいてきました。

一方で進駐軍の接収が戦後10年も続いて、各出張所での営業を余儀なくされるという冬の時代もありました。横浜駅への進出の機会を逸したのも、この10年間の遅れが響いた結果かもしれません。しかし、昭和30年代にはいち早い復興・増築もなって第2期黄金時代を迎えています。

平成に入ってからも、横浜松坂屋は最盛期には年間300億超の売上がありました。閉店は、たしかに床面積に勝るライバル店との売上の差もありましたが、建物の耐震性の問題があったからです。」
 


数度にわたる改築には夏目漱石の義弟である鈴木禎次氏も参加(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)


社名変更は、外部の人間に松坂屋の野澤屋に対する“乗っ取り”を想像させるが、これも違うようで、石田さんによると、「創業当時からの名古屋資本との姻戚関係や、大正期の営業協力関係等、松坂屋との関係は昔から強いものがありました。野澤屋出身の役員も多くおりましたし、社員クラスでは、横浜から銀座・上野店への異動や逆のケースもあり、人事交流もごく普通に行われていました。人事面での不都合はありませんでした」と円満な融合であったことを強調する。



収益の1割は社会に還元



「ただ社名変更に伴い、社章も替わりました。野澤屋の社章は『イリク』マークですが、ノザワ松坂屋、横浜松坂屋に社名変更してからは『いとう丸』になりました」
 


野澤屋・ノザワ松坂屋・横浜松坂屋のそれぞれのバッチ


「イリク」(入九)とは、野澤屋の精神を現したもので、「商売は一歩さがって、九に止め(とどめ)、謙譲の信念から生まれる奉仕の精神が肝心であり、物事は常に行き過ぎを戒め、余力を以て行うべし」というものであるとか。この言葉通り、茂木惣兵衛は私財を投じて熱海梅林を作るなど、生涯を通じ多くの社会貢献事業をなしている。

石田さんは1973(昭和48)年の入社。当時の野澤屋に関して「女性店員が半数以上でしたが、みな誇りをもって仕事をしていましたし、厳しく指導もして頂きました。学生にとっても憧れの職場だったので、入社競争率も25倍ほどしたようです」と回想する。
 


野澤屋のバスガール(画像提供:イセザキ・モール1・2St.)


「たしかに横浜駅周辺への出店のチャンスを逃し、それがのちの閉店につながるといった時代の波に乗れなかった部分はありましたが、でも素晴らしい百貨店でした」
野澤屋、そして横浜松坂屋のかつての勢いを語る石田さんは、日曜日夜10時から店の店頭で歌っていた路上ライブ時代の「ゆず」の担当(通称ゆず坦)でもあった。二人に関しては、よい印象を持っている。

「『(終電に間に合わなくなるから)女子は早目に気をつけて帰ってね』とか『ゴミは落とさないでね、家に持ち帰ってね』とか、集まった人たちに呼び掛けていました。だからあの二人が歌ったあとでも、ゴミは一つも落ちていませんでした」

「ゆず」は2003(平成15)年12月31日、NHK紅白歌合戦に横浜松坂屋前から生出演し、路上は人で埋めつくされた。

幕末、明治、大正、昭和、そして平成と横浜の発展とともにあった野澤屋。伊勢佐木町のシンボルとして、多くの人の心に残っている。



取材を終えて



現在のイセザキ・モールに関して、みなとみらいのような新しい商業地区に押されて衰退気味のようにいわれることもあるが、その見方は間違いですと石田さんは明言する。

「イセザキ・モールは現在でも平日で3~4万人、休日では5万~6万人の人出があります。たしかにヴィトンやグッチといったスーパーブランドはありませんが、ユニクロ・ABCマート・マツモトキヨシ等、人気商業施設で圧倒的に消費者の支持を得ている店舗群も充実しています。1・2St.ではおよそ130店舗ある中で、25店舗が明治・大正年間から続いているお店です。新旧店舗の組み合わせが程よく融合した、正に『OLD but NEW』の横に広がった百貨店といえるでしょう」
 


横浜松坂屋の跡地にできたカトレヤプラザ伊勢佐木


そんな伊勢佐木町を支えてきた野澤屋。跡地にあるカトレヤプラザ伊勢佐木は新しいイセザキ・モールを代表する店舗を目指している。はまれぽでも「2012年2月8日にオープンする横浜松坂屋の跡地にできる『カトレヤプラザ伊勢佐木』の中ってどんな感じ? 」でとりあげた。

伊勢佐木町とともにあった野澤屋、そして横浜松坂屋。これからも多くの人が、その思い出を語り続けることだろう。


―終わり―
 

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  • 幼少期の記憶(50年ほど前)なので曖昧ではありますが、月一くらいで母親に連れられてイセザキ町に行くと松屋か野澤屋の地下にカウンターでおにぎりを食べさせてくれるお店があり、お昼時に型に入れて作ったおにぎり(具はシャケ)をひとつ食べてとても美味しかったのを覚えています。手で握ったおにぎりと違いふんわりとした食感でした。食後は館内とイセザキ町の買物のお供をして帰宅前に不二家でドーナツを買ってもらうのが定番でした。懐かしいです。

  • 「井藤丸」ですか…。松坂屋さんの徽章をまじまじと見たのは初めてでした。この3個の徽章は貴重ですね。しかし…歴史的な建造物、耐震補強できなかったのでしょうか。どうも「作っちゃ毀し」の犠牲になったような気もします。古い建物のため、あるいは構造上耐震補強が困難で高額になるような場合は、行政が一定補助するような仕組みが必要ではないでしょうか。「作っちゃ毀し」を防ぎ、昔からある景観維持のためにも、行政も少しくヨーロッパに制度を学んでほしいですね。

  • 私にとって、野沢屋が時代遅れと感じられるようになったのは、松喜屋とともに、下りエスカレーターがないことが大きかった。でもそれは、お店の人気としては重大なかったのかな。

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