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高島町にあったという歌舞伎座の歴史は?

ココがキニナル!

昔、高島町に松竹大歌舞伎があったと聞いたことがあります。今の築地と二枚看板だったそうですが、当時の盛況ぶりが知りたいです。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1920年に松竹株式会社が花咲町7丁目に歌舞伎などを行う総合劇場・横浜劇場を建てるも、関東大震災の影響などで消失。3年弱の歴史だが盛況だったそう

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ライター:橘 アリー

歌舞伎座とは!?



日本の伝統芸能である歌舞伎。歌舞伎は、今から400年以上前の江戸時代に始まり、明治時代になって世の中が急激に近代化されていくのにともない、「歌舞伎も内容も時代に合わせたものにしよう」という演劇改良運動が起った。
その流れによって作られたのが東京・銀座4丁目にある歌舞伎座だ。その後、火災・震災・空襲・老朽化などにより、銀座の歌舞伎座は何度か建替えられはしたが、2013(平成25)年に現在の建物が竣工した。


老朽化により2010(平成23)年に閉館した歌舞伎座(フリー画像より)


2013年竣工の現在の歌舞伎座(フリー画像より)


歌舞伎座というと、誰もがこの銀座の歌舞伎座を思い浮かべるのではないだろうか。そんな歌舞伎座が、横浜にもあったというのは確かに、とてもキニナルものだ。高島町にあったという「横浜の歌舞伎座」は、どのようなものだったのだろうか。



「横浜劇場」という名前の複合的興行館だった!?



まずはインターネットで検索してみると、横浜開港資料館が編集・著作した本に、高島町にあったという歌舞伎座についての記述があると分かった。そこで、開港資料館へ行って調べてみることに。


開港資料館の様子

 
高島町の歌舞伎座について書かれているのは『横浜の芝居と劇場』『なか区歴史の散歩道』という本である。


 
『横浜の芝居と劇場』(左)と『なか区歴史の散歩道』
 

資料によると、高島町にあったという歌舞伎座は、「横浜劇場」という名前だったという。「横浜劇場」が建てられるまでには、下記のような経緯があった。

まず、松竹株式会社(以下、松竹)が京都から東京に進出。東京にあった劇場の「新富座(しんとみざ)」「本郷座(ほんごうざ)」を買収して傘下におさめて、1914(大正3)年から歌舞伎座を直営するようになった。

松竹はさらにその翌年の1915(大正4)年、横浜にあった劇場「横浜座」を買収し、もともと歌舞伎座があった京橋区(現在の中央区)木挽町(こびきちょ う)を拠点としていた、歌舞伎役者の羽左衛門(うざえもん)や五代目中村歌右衛門(ごだいめなかむらうたえもん)などが「横浜座」を新しい拠点とした。


現在の歌舞伎の看板(フリー画像より)


松竹は、ほかの芝居小屋から著名な歌舞伎役者を「横浜座」に集めた。江戸時代から続く芝居小屋である東京・市村座を拠点としている尾上菊五郎らを呼んだ り、帝国劇場を拠点としている尾上梅幸(おのえ ばいこう)と羽左衛門との大顔合わせを実現させたりするなど、横浜の歌舞伎界を盛り上げたようである。

このように、大顔合わせなどでおおいに盛り上がり、「横浜座」は銀座の歌舞伎座のように多くの客入りがあったようだ。


横浜劇場で上演されていた狂言を記録した新聞


そして、1920(大正9)年に、歌舞伎・新派・喜劇・オペラ・バレエなどの複合的興行館として、高島町に「横浜劇場」を建てたという。
この背景について明確な資料は残っていないが、横浜は開港以来、多くの外国人が居住していたこともあり、オペラなど洋風なものの興行も行われていたこともあると推測される。


 
大正調査番地入 横浜全図、1920(大正9)年の地図
<クリックして拡大>

「横浜劇場」があった場所は、1920(大正9)年の地図に載っており、現在の住所で言うと、西区花咲町7丁目辺りで、横浜市営地下鉄の「高島町駅」周辺ということになる。
では、その「横浜劇場」は、どのような様子だったのだろうか?