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昭和40年代まで金沢区にあった富岡射撃場について教えて!

ココがキニナル!

昔は富岡に射撃場があった。高度成長期には盛んでウルトラセブンの最終回にもクレー射撃のシーンがあるほど。今は住宅地になって面影もありませんが富岡射撃の歴史について調べて下さい(駅馬車さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

富岡射撃場は1955年に開催された国体のために作られ、昭和40年代になって、周辺の宅地開発が行われ、売却。1972年に伊勢原に移転した

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ライター:橘 アリー

県営の射撃場だった!?



現在は閑静な住宅地である金沢区富岡に、射撃場があったとは想像がつかない。
キニナル投稿にあるように、現在では射撃はマイナーなスポーツだが、一般的に言われる高度経済成長期(昭和30年ごろから40年代後半ごろ)には射撃が盛んだったという。富岡にあったという射撃場はどのようなものだったのだろうか。

まずは、インターネットで富岡射撃場について検索してみた。
すると、国立国会図書館が全国の図書館と協同で行っている「レファレンス協同データベース」に富岡射撃場についての記載があった。
 


射撃のイメージ(フリー画像より)


それによると、富岡の射撃場は「県営」だったもよう。
さっそく神奈川県のホームページで確認してみると、富岡にあった射撃場は、1972(昭和47)に伊勢原市に移転したとのこと。
 


神奈川県の
ホームページ
 

現在の
伊勢原射撃場


さっそく、射撃場の歴史にくわしい「神奈川県教育委員会教育局スポーツ課」に取材を申し込むことに。
 



国体にために作られた射撃場!



同課企画調整グループ主幹の深野博継(ふかのひろつぐ)さんと、主事の中村宜隆(なかむらのりたか)さんにお話を伺った。
 


快く対応して下さった、深野さん(左)と中村さん


まずは射撃場があった場所を聞いてみたところ、現在は金沢区富岡西6丁目の「富岡西公園」になっているとのこと。

次に、富岡射撃場が作られた経緯について伺った。

富岡射撃場は1955(昭和30)年、日本各地で開催される通称「国体」、国民体育大会が神奈川県で行われることになったために作られた。
 


国体が行われた当時の様子


金沢区富岡が選ばれた理由は、県内の各所を探したが、他に適している場所がみつからず、当時、工作機械メーカー日平産業株式会社(現コマツNTC株式会社/本社は富山県)が所有していた富岡の土地が周辺には住宅がなかった、という立地条件が合い、適当だったから。

そして約1万3千坪(だいたい横浜アリーナ2個ぶん)を坪当り当時700円(現在の富岡西の坪単価:69万円)で買収し、土地代を含めて1500万円(現:3億円)の予算で建設が行われた。
 


富岡射撃場での競技の様子
 

国体の時、富岡射撃場に、昭和天皇・皇后両陛下も、ご来場されていた


施設の設備は、スモールボア・ライフル射撃(口径5.6mm、およそ50cmから69cmの銃身の銃で固定された標的を射撃し得点を競う)用の50メートルの射場、的の数は20、エア・ライフル(空気銃)射撃用の10メートルの射場と的が30、クレー射撃(散弾銃で空中を動くクレーと呼ばれる素焼きの皿を撃ち壊す競技)用のトラップ射場2面とスキート射場1面。
ほかには、管理事務所、控室などの付属の建物があった。

残念ながら当時の周辺写真や図面などは残っていないとのことなので、昭和30~40年代の明細地図で様子を確認してみた。
すると、1967(昭和42)年の地図を発見。
 


1967年当時の様子


ライフル射撃場としても、ライフル・クレー射撃場としても、ここは当時日本一の規模だった。
そして、1958(昭和33)年、第3回アジア競技大会が東京を中心に行われることになり、ライフルとピストル射撃競技を富岡射撃場で行うことになったので、新たな設備の改修が行われた。

その後も、ラピッド・ファイア・ピストル競技用の設備や、約30人が宿泊できる合宿所などが作られた。
次々と設備の新設が行われ、1970(昭和45)年には約1万4千人もの利用者がいたほど、競技としての射撃人気は高かったようだ。
 


射撃利用者(一般人)の表。人気が高かった様子が伺える


このように、富岡射撃場は多くの人が訪れ、1964(昭和39)年の東京オリンピックのライフル射撃競技場が埼玉県の朝霞に作られるまでは、日本のライフル射撃競技のメッカと言われた場所だった。

次に、伊勢原に移転することになった理由を聞いてみた。
 


周辺が住宅地として開発されたことにより移転!



1969(昭和44)年、年間の富岡射撃場の利用者数は、ライフル射撃が約9000人でクレー射撃が約1万人であった。
 


国体での射撃の様子(第10回国体記念写真帖・1955神奈川県より)


射撃場には多くの人が訪れていたが、1970(昭和45)年ごろになると、周辺の土地が住宅地として開発されて行くようになると、この場所に適した施設ではないという風潮になってきた。

そこで、神奈川県はライフルとクレー射撃の競技会と話し合い、富岡射撃場の売却代金の範囲内で新設可能だった伊勢原に移転することになったのだそう。

これで、富岡射撃場が作られた経緯や様子がわかった。では、射撃場があった跡地は、どのようになっているのだろうか。そして、名残りのようなものはあるのだろうか。
現地へ行って確認してみることに。