横浜の主力輸出品だった生糸。その栄枯盛衰に迫る!
ココがキニナル!
昭和の初めごろ、横浜港の近くにあった生糸検査所で、たくさんの若い女性が働いていたそうです。当時、生糸は横浜の主力輸出品だったようですが、横浜のどのあたりで盛んだったの?(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
養蚕が盛んだった地域は、現在の泉区・戸塚区・瀬谷区。大正9年の生糸相場の暴落、太平洋戦争により、軍事が優先となり産業は衰退していった。
ライター:橘 アリー
横浜開港により、養蚕(ようさん)が盛んになった!?
今回の調査は、養蚕と生糸検査所について。
養蚕とは、蚕を飼ってその繭から生糸を作ること。
財団法人大日本蚕糸会のホームページによると、日本に養蚕の技術が伝えられたのは紀元前200年頃で、江戸時代末期から製糸の機械化が始まったようだ。
蚕の繭の様子(フリー画像より)
そして、1859(安政6)年に横浜が開港すると外国との貿易が始まり、絹は諸外国へ輸出されるようになり、ますます盛んになっていった。
では、そんな養蚕業が、どうやって盛んになり、どんな流れで衰退していったのかを調べていくことに。
養蚕業の栄枯衰勢の流れを調べてみた
1859(安政6)年6月に横浜が開港して、その翌月あたりから生糸の輸出が始まり、それにより、生糸の生産量は年々増えて行った。
そして、養蚕が特に盛んだったのは、明治20年代からであったようだ。
『神奈川県統計書』によると、鎌倉郡の養蚕農家は、1884(明治17)年~1888(明治21)年までは、1000~1500戸あり、21年には3000戸に達して、1893(明治26)~1894(明治27)年がピークだったそうだ。
「神奈川県統計書」を元に書かれた、養蚕業の推移についての資料の様子
その後、1920(大正9)年に起きた戦後恐慌による、生糸相場が暴落。養蚕農家も2000戸程に減り、太平洋戦争が始まると、産業は養蚕よりも軍事が優先となり衰退して行った。
昭和13年統計資料では、360戸まで減っている。
横浜で養蚕が行われていた地域は?
まずは、中区にある「シルク博物館」に、問い合わせてみた。
すると、養蚕が行われていた場所を“横浜市内のどの区で”という括りで答えるのは難しい、との事だった。
そこで、横浜市内の各区の郷土史などの資料を見てみると、港北区・青葉区・緑区・瀬谷区・戸塚区・泉区・保土ケ谷区の7区で養蚕が行われていたと分かった。
横浜市は18区あるので、7区と言うと、市内の三分の一以上の地域で養蚕が行われていたことになる。
緑区の資料
その資料に載っている桑畑の様子
なお、養蚕が特に盛んに行われていたのは明治20年代だそうだ。当時は、各地域は区ではなくて郡で分けられていて、養蚕が行われていた横浜の地域を郡で言うと、鎌倉郡・都筑郡・橘郡になる。
シルク博物館で、市内の区で括るのは難しいと言われたのは、たぶん、このためではないだろうか。
『横浜の歴史』
『横浜の歴史』に載っている郡の地図の様子
鎌倉郡に属していたのは、瀬谷区・戸塚区・泉区で、都筑郡に属していたのは緑区・青葉区・港北区で、橘郡に属していたのは保土ケ谷区である。
これらの郡の中でも、鎌倉郡で最も養蚕が盛んに行われていて、その中の瀬谷村・中和田村・中川村が、養蚕農家と製糸工場がある、養蚕製糸業地帯を形成していたようだ。
(横浜開港資料館館報 第13号より)
ちなみに、港北区には、養蚕農家はあったが製糸工場は無かったので、中和田村の製糸工場まで繭を手押し車に乗せて運んでいたそうである。
なお、瀬谷村は現在の瀬谷区で、中和田村と中川村は泉区(1944〈昭和14〉年~1986〈昭和61〉年までの間は戸塚区)である。
資料で調べた結果、現在の泉区が、養蚕が最も盛んだったと分かった。