解体が報じられた、横浜最古の倉庫「旧日東倉庫」の歴史を探る!【前編】
ココがキニナル!
解体が取りざたされている横浜最古の倉庫「旧日東倉庫」の今後はどうなる?(はまれぽ編集部のキニナル)
はまれぽ調査結果!
114年間同じ場所にたたずむ倉庫は、耐火耐震建築として全鉄筋コンクリート建築物を実現するための最後のステップであり、近代建築史の縮図といえる
ライター:永田 ミナミ
「横浜最古の倉庫解体へ」という見出しで8月1日(金)付の神奈川新聞1面で報じられた記事によって日本大通周辺がざわついている。そしてそのざわめきについては、8月7日にはまれぽでもブレーキング・ニュースを掲載した。
この味わい深いタイル壁が消えてしまう日が来るのだろうか
そこで今回は、今からでも保存と有効活用について可能性を探ってみる価値はあるのではないか、という問題提起もふくめながら、前編は倉庫建物の歴史、後編は倉庫内部の様子と現状と今後、と2回にわけて、日本近代建築史における倉庫の位置と意味について、できるだけ掘り下げてみる。
建物の歴史
調査会や神奈川新聞で「『重要文化財級』との評価も」と言われる倉庫について、まずは名称を整理しておく。「三井物産株式会社横浜支店倉庫」として建てられたのが1910(明治43)年。
戦後の1959(昭和34)年2月、三井物産株式会社から倉庫営業部門を分離独立させて別会社とするため、資本金5000万円をもって設立されたのが「日東倉庫株式会社」であり、同社は同年4月から営業を開始した。このとき「日東倉庫株式会社横浜支店日本大通倉庫」となった。
2014(平成26)年8月中旬の旧日東倉庫
倉庫は1980(昭和55)年ごろまでには開店休業状態になり、社名は2003(平成15)年に「日東ロジスティクス株式会社」、2007(平成19)年にはグループ2社との統合により「トライネット・ロジスティクス株式会社」と変わっていくものの、一貫して100%の株主である三井物産によって所有されてきた。
日本大通から少し入ったところにあるその倉庫は
横浜情報文化センターと向かい合うように建っている
上の地図で倉庫に隣接する青い建物は、「旧日東倉庫」設立の翌1911(明治44)年に、日本最初の全鉄筋コンクリート建築となる「横浜三井物産ビル(現在はKN日本大通ビル)」である。1号館、2号館となっているが、1911年に建てられたのが日本最初のオフィスビルでもある1号館で、のちに1927(昭和2)年に建てられた2号館と合体して、現在は1つのビルとなっている。
街路樹が生い茂る盛夏の現在は遠景だとわかりにくいが、この正面玄関の
左側(手前)が1号館、右側(奥)が2号館である
2号館側から。よく見ると柱の張り出し方や窓の配置が微妙に違って興味深い
先進国において鉄筋コンクリート(RC:reinforced concrete)による建築物がつくられるようになってからわずか10年ほどの時差で、明治時代の終わりにこのビルが建てられたことそれ自体快挙であるが、1911年という建設年は、1923(大正12)年の関東大震災、1945(昭和20)年の横浜大空襲という近現代史上最悪の惨事を2つとも乗り越えたことを意味し、快挙どころではない驚嘆すべき建物である。
そして、この「旧横浜三井物産ビル」に隣接する「旧日東倉庫」は、それをさらに1年さかのぼる1910(明治43)年から今日まで、同じように震災と空襲に耐え、建ち続けていることになる。
1号館のみだった当時はこちら側が正面玄関で、倉庫と半ば一体の建物である
緑色の鉄扉がいいアクセントになっている煉瓦壁の倉庫
いまや観光スポットとして人気を集めている赤レンガ倉庫は2号倉庫が1911年、1号倉庫は1913(大正2)年建設であり、現存するもので倉庫より古い建物は、1904(明治37)年建設の神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館)くらいのものである。
ただし、神奈川県立歴史博物館は関東大震災時に屋上ドームが焼失し、1967(昭和42)年に復元されているのに対し、「旧日東倉庫」、「旧横浜三井物産ビル」は建設時そのままの姿を留めている。
横浜大震災実況 横浜正金銀行惨状(提供:横浜市中央図書館)