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港北区新羽町で作られていた「寒そうめん」について教えて!

ココがキニナル!

昔、新羽のあたりは、寒ソウメン作りで有名だったと聞きました。かつては田んぼが広がる農村地帯だったと思いますが、麦も作っていたの?また、いつごろまで作っていたのでしょうか?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

寒そうめん作りは江戸中期から農家の副業として始められた。小麦は周囲の村から調達。江戸にも出荷されていたが、昭和初期の恐慌をきっかけに作られなくなった

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ライター:橘 アリー

寒そうめんとは!?



港北区の新羽周辺の特産品だったという寒そうめん。

寒そうめんとは、1年で一番寒い時期(11月~3月)に作ったそうめんのこと。
寒そうめんの産地(小豆島)の情報を見ると、乾燥した寒い時期に作る寒そうめんは“夏まで熟成させることによりコシのあるおいしいそうめんに仕上がる”ようである。
 


そうめんのイメージ(フリー画像より)

 
そんな「寒そうめん」が、横浜の特産品だったとは、ちょっと意外な感じがするものだ。
では、新羽の寒そうめんはいつごろまで作られていたのか、調べて行くことに。



新田地区と呼ばれた地域で広く作られていた!



新羽の歴史について詳しく書かれている『新羽史』の編集委員会の長谷川武明さんにお話しをうかがった。
 


『新羽史』
 

快くお話しを聞かせて下さった長谷川さん

 
「寒そうめん」は、現在の新羽町だけではなく、新吉田町と高田・高田町・小机町などでも作られていたそうだ。
これらの地域は江戸時代には都筑郡に属していて、明治時代には行政区画の変更により新田地区と呼ばれるようになり、その新田地区一帯が「寒そうめん」の生産地域だったとのこと。

また、『港北区史』という資料によると、宝暦年間(1751~1764年)から造られていたとあり、また、江戸時代の歌人である太田南畝(なんぽ)が書いた『向岡閑話(むこうがおかかんわ)』に、“1809(文化6)年に小机村でそうめんを造っていた”と記されている。
これらにより、江戸時代の中ごろから「寒そうめん」が作られていたことがわかった。
 


『港北区史』

 
「寒そうめん」が作られていた地域は、米作りが中心の農村だったが、近くを流れる鶴見川がたびたび氾濫を起こし農業に影響を及ぼしていたので、農業だけでは生活が苦しかった。
そこで、副業として「寒そうめん」作りが始められるようになったそうだ。

なお、『都筑の民族』という資料には、そうめん作りの由来についてのエピソードが掲載されている。それによれば、江戸時代に物売りの旅人が病気になっているのを表吉田の加藤という名主が助けた際、旅人からそうめんの作り方を教えてもらったそうだ。

そして、江戸時代中ごろから作られ始めた「寒そうめん」は、やがて地域の特産品となっていき、1912(明治45・大正元)年には新羽・吉田にそうめん製造家が18戸、大正期で新羽に12戸、吉田に11戸、高田に1戸あったそうだ。

現在、新羽で以前に「寒そうめん」を作っていた農家として、当時の屋号が分かっているのは2戸である。
 


新羽の屋号が記されている地図(『新羽史』より)※クリックして拡大

 
地図中の数字の5の所が屋号「ソウメンヤ」で、アルファベットのMの所が屋号「そうめんや」である。
ちなみに、両方とも、現在は農業をされていないが、長谷川さんによれば、「そうめんや」さんは現在・・・
 


紙器加工販売のニッパ株式会社になっていて
 

そうめんを貯蔵していた蔵は残っている