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昭和初期に1年足らずで閉鎖した幻の映画撮影所「シネマパーク子安撮影所」について教えて!

ココがキニナル!

1927年に開設された「シネマパーク子安撮影所」について知りたいです。松竹は大船に移転しますが、そもそも第一候補は戸塚でした。このあたりの経緯とも繋がる?(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「シネマパーク子安撮影所」は松竹鎌田撮影所の西七郎氏が作った貸しスタジオ。大船への移転とは繋がりはない。

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ライター:橘 アリー

大船と同じ面積の撮影所だった!

かつて、大船に映画の撮影所があったことは、はまれぽでも記事にしているが、子安に映画の撮影所があったことは、あまり知られていないのではないだろうか。
インターネットなどで調べてみると、大船も子安も、撮影所の敷地面積はともに3万坪で、身近な施設と比べてみると、横浜スタジアムの球場面積の約3.8倍にあたるようだ。
 


この3.8倍とは、けっこうな広さである(横浜スタジアム、フリー画像より)


「シネマパーク子安撮影所」が作られたのは、1927(昭和2)年とのこと。
昭和初期のこのころは、ちょうど、それまでの音のないサイレント映画から、トーキーと呼ばれる音のある映画へと移り変わっていった時代である。

そんな、映画の移り変わりの時期に作られた「シネマパーク子安撮影所」とは、どのような所だったのだろうか。

松竹蒲田が関係しているとのらしいことなので、まずは、松竹株式会社に問い合わせてみた。
すると、社内にはそれに関してお伝えできる部署は無いが、築地にある松竹大谷図書館の資料の中に、「シネマパーク子安撮影所」について書かれているものがあるとのこと。
 


松竹大谷図書館は、銀座松竹スクエアビルの3階にある


そこで、大谷図書館の資料と、横浜市内の図書館の資料をもとに「シネマパーク子安撮影所」について調べていくことに。



独立した貸しスタジオだった!?



まずは「シネマパーク子安撮影所」と松竹蒲田との関係について。
この「シネマパーク子安撮影所」は、松竹が作った撮影所ではなく、当時、松竹蒲田撮影所の舞台装置部主任をしていた西七郎(にし・しちろう)氏が作った撮影所であるようだ。

つまり、松竹が運営していたのではなく、あくまでも、西氏が作った独立映画(自主制作映画)の貸しスタジオということ。
なので、キニナル投稿にある、1936(昭和11)年に松竹が大船に移転したこととの繋がりは無いようである。
 


「シネマパーク子安撮影所」についてのコラム(『わが町の昔と今 神奈川区編』より)




西七郎氏について



西氏は、1920(大正9)年の蒲田撮影所創設当時から、舞台装置部の主任を務めていた。

舞台装置部とは、現在でいう大道具のこと。当時の大道具は、松竹の舞台装置部という名称であっても、松竹から給料を貰うのではなく独立した存在で、請負いで仕事をしていたようである。
その当時、西氏は、蒲田撮影所と神田劇場とを掛け持ちで請け負って仕事をしていたそうだ。
 


大道具請負として西氏の名前が書かれている(『講座日本映画』より)


西氏の人物像については、資料『講座日本映画』の中に、「とても絵が上手く、いろいろと新しいものを考える頭のいい人だった」と書かれている。
そして、夜寝ていて何か思いつくとハッと起き、メモをして、それをすぐ実行する行動力もあったようである。

1927(昭和2)年に松竹を辞めるまで、西氏は、大道具の主任として尽力した。松竹には1929(昭和4)年に美術部ができたのだが、その美術部の草分けとして活躍した小池一美氏に仕事を教えるなど、松竹に多大な貢献をした存在であった。
そのため、松竹としても、西氏の撮影所に期待を寄せていたようである。

続いて、西氏が「シネマパーク子安撮影所」を作った理由とスタジオの様子について。



茅ヶ崎にも撮影所があった!?



昭和初期のその当時、映画界はとても勢いがあり、映画を制作する小さなプロダクションが多かったが、反面、撮影所は不足していた。

そこで、西氏は、小さなプロダクションでも映画の撮影ができるように貸し撮影所が必要だと痛感したため、自ら、「シネマパーク」という名称で、1927(昭和2)年3月に子安と雲雀ケ丘(ひばりがおか)海岸(茅ヶ崎市)に貸しスタジオを作ったそうである。

これまで「シネマパーク子安撮影所」と書いてきたが、撮影所の正式名称は、「シネマパーク撮影所」で、子安が第一で茅ヶ崎が第二というように分けられているようだ。
 


シネマパーク撮影所の広告(『シネマ風土記』より)


敷地面積は、子安は前にも書いたが約3万坪で、茅ヶ崎は約4万坪もしくは約5万坪(資料によって、茅ヶ崎の敷地面積が異なっており約4万坪と約5万坪の2つの記載があるが、どちらが正しいのかは不明)。
子安は山や谷のロケーション用、茅ヶ崎は海のロケーション用であった。

そして、子安、茅ヶ崎とも、150kwの電力が使用できて、撮影にも豊富な光線を自由に得られる照明設備が完備されていたそうだ。
また、ダークステージ(外光を遮断し、人工光線のみを使用する撮影スタジオ)や現像整理室、衣装部屋などもあったようである。

子安も茅ヶ崎も、当時においては、設備の整った素晴らしい撮影所だったのであろう。

続いて、どのような映画の撮影が行われていたのかについて。