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戦争体験者が語る、知られざる「富岡空襲の記憶」とは?

ココがキニナル!

横浜空襲の10日後、1945年6月10日に京急富岡付近のトンネルで米軍による爆発事故があったそう。横浜市民として戦争の記録は受け継がなければならないと思います。(ネコカフェさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

富岡空襲は100名近い犠牲者を出したとされる惨事(意図的な爆撃であり“事故”ではない)。遺体が運び込まれた慶珊寺(けいさんじ)には供養塔がある

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ライター:松崎 辰彦

富岡空襲とは



富岡空襲はその10日ほど前、1945(昭和20)年5月29日に起こった横浜大空襲の陰に隠れているのか、話題になることはさほど多くない。しかし100名近い人命が失われたその被害規模の大きさには注目すべきものがあり、後世に語り継がれなければならない“事件”であることは間違いない。
無防備な一般市民に数百発の爆弾が投下され、阿鼻叫喚(あびきょうかん)のなかで無残にも多くの命が奪われたのである。
 


京急富岡駅


横浜大空襲後、もう大きな空襲は起こらないのではないかと希望的観測を抱いていた横浜市民に対して、戦争の酷さを心底まで刻みつけたこの痛ましい空襲を、70年の時を経て、5月29日の今日、振り返ってみたい。



慶珊寺にある富岡空襲の供養塔



京急富岡駅から横須賀街道を歩いておよそ15分。富岡総合公園に近づいたころ、左手に現れるのが真言宗の寺院、慶珊寺(けいさんじ)である。創建は1624(寛永元)年、庭には樹齢180年のイチョウや樹齢270年のクロマツといった名木が立ち並ぶ。
 


慶珊寺
 

美しい松がある
 

境内も広い


そうしたなか、境内の一角に石造りの建造物がある。半球の土台に小さな塔が建てられたもので、正面に「戦争犠牲者諸聖霊」と刻まれている。
 


供養塔


脇には由来が刻まれているが、風雪を経て読みづらくなっている。
「この供養塔の建立は、私がここの住職になって初めてやった仕事です。今でも6月10日になると、遺族の方がここにこられてお花を捧げておられます」
説明する佐伯隆定(さえき・りゅうじょう)住職。終戦後70年が経過した今日、富岡空襲について目撃した人物は数少なく、ご自身が「私はあの空襲について語れる最後の世代」といって笑う。
 


佐伯隆定住職


“その日”のあらましについてうかがうと、穏やかな調子で話し始めた。



海に水柱が立った



1945(昭和20)年6月10日──住職は11歳の少年だった。
日本はすでに米軍に追い詰められて敗色も濃く、日々空襲の脅威にさらされていた。
10日前の5月29日には横浜がB29の大編隊に見舞われ、数千人の死者を出した。佐伯少年は横浜市港北区中山に疎開していたが、そこから横浜大空襲の猛火と黒煙を絶望的な気分で眺めていた。
 


横浜大空襲により街中に煙が立ち上る(画像提供:横浜市史資料室)


「空襲の前日に、私は(慶珊寺に)一時帰宅したんです。寺には鳥取からたくさんの中学生が来ていて、本堂に寝泊まりしていました。軍需工場で昼夜交替で働いていて、この日も半数近くが非番で寺に残っていたんです」

朝食をとった後、佐伯少年と弟、そして中学生たちは庭で相撲をとって遊んでいた。そのとき、空襲警報のサイレンが鳴った。ラジオから「敵機数編隊小田原に上陸、霞ヶ浦に向かって進行中」という声が聞こえた。

(霞ヶ浦ならばこっちとは関係ないな・・・)

少年は思った。もとより近くには横浜海軍航空隊があり、また横須賀には軍港もある。敵もわざわざ迎撃される危険を冒して、こちらまで空襲になど来ないだろう。
 


富岡総合公園にある「横浜海軍航空隊」隊門


「横浜大空襲も磯子止まりで、こちらまでは来なかったんです。だから大丈夫だろうと思っていました」

しかしこんな希望的観測はすぐに裏切られた。
「やがてB29特有の重低音が聞こえてきました。次の瞬間、ザーっという豪雨のような音がして、猛烈な爆発音がして、地面が揺れました」
 


B29(フリー画像より)


当時は慶珊寺から海が見えたが、目をやると海面に水柱が立っていた。海に落ちた爆弾が爆発したのである。
佐伯少年は裏山にある防空壕を目指した。防空壕に飛び込むと同時に再び地面が揺動した。その後、もう一度、地響きがした。住職は「爆撃は3波に渡って行われました」と回想する。