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戦争体験者が語る、知られざる「富岡空襲の記憶」とは?

ココがキニナル!

横浜空襲の10日後、1945年6月10日に京急富岡付近のトンネルで米軍による爆発事故があったそう。横浜市民として戦争の記録は受け継がなければならないと思います。(ネコカフェさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

富岡空襲は100名近い犠牲者を出したとされる惨事(意図的な爆撃であり“事故”ではない)。遺体が運び込まれた慶珊寺(けいさんじ)には供養塔がある

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ライター:松崎 辰彦

境内に遺体が運び込まれた



防空壕の中で、空襲が終わるのを息を殺して待った。やがて空襲警報が解除され、佐伯少年は防空壕から出て帰宅した。当時の慶珊寺は茅葺き(かやぶき)の屋根で、屋根にあった積年の煤(すす)が地響きで床に落下し、足の踏み場もないほどであった。掃除をしていると、外にいた母親が「大変だ!」とあわてて家の中に駆け込んできた。
 


かつての慶珊寺(『武州富岡史話』より)


「遺体を乗せたトラックがきて、戸板や焼けトタンに遺体を載せて境内に置いていくのです。腕や脚がなく、男か女かもわからない肉の固まりのような遺体です。とても正視できませんでした。その日、担ぎ込まれたのは40体といわれました」
 


「ここに遺体が並びました」と佐伯住職


駅周辺の爆撃で亡くなった遺体が運び込まれたのである。駅から歩いて15分という、決して近くない慶珊寺に駅周辺の遺体が運び込まれたのは不思議に思えるが、住職は「当時は遺体を置く場所が決まっていたんです。どこでもいいというわけではなかった」という。
慶珊寺は大きな被害がなかったが、その日から遺族が現れ、泣きながら遺体を引き取っていった。

「当日の夕方なんて惨憺(さんたん)たるものでね。肉の固まりに寄り添ってオイオイと泣いてね、見ていられなかったですね」
救助活動は消防団の人たちがやってくれたとのこと。

 

供養塔の脇には由来が刻まれている
 

当日、翌日と少年は父に伴われて多くの通夜と葬儀に参加した。檀家の多くが被害にあったのである。当日は3軒の家を回った。最初の家には10体ほどの遺体があった。防空壕の上に爆弾が落ち、土砂が入り口をふさいだので中にいた全員が窒息死したという。
その後さらに2軒の通夜。急ごしらえの棺に複数の遺体を納め、それがいくつか積み上げられていた。

祭壇も電灯もない、ロウソクだけの通夜に佐伯少年は

──ここは戦場だ──

と子供心に感じていた。



人道トンネルの惨劇



慶珊寺に運ばれた遺体の多くは、京急富岡駅で被害にあったものだった。佐伯住職は説明する。
「電車は警報を受けると、停車する決まりだったようです。あの日は警報が出て、それで電車に乗っていた人のうち多くが降りて、駅の下にある人道の小さなトンネルに入ったんです。電車はそのまま、電車のトンネルに入った。その中には、降りなかった人もいたということです」

爆弾は電車から降りた人たちが避難した、人道のある小さなトンネルの前後に落ちた。猛火と烈風が、何の防御もない人たちに襲いかかり、命を奪った。
 


現在も残る人道トンネル


トンネルに入った電車にも爆弾は襲いかかり、被害をもたらした。
人道のトンネル内で亡くなった人は、住職によればおよそ40人だったという。かろうじて一命を取りとめた人は、病院に運ばれた。

「この空襲は富岡の民家を襲ったものではなく、現在の富岡総合公園付近にあった横浜海軍航空隊の基地や、イトーヨーカドー能見台店の場所にあった軍需工場の日兵産業(日本兵器産業)を狙ったものだと思います。日兵産業では機関銃を作っていました」

たしかに焼夷弾ではなく爆弾を用いた空襲には、重機類や機械類を殲滅(せんめつ)する意図が感じられる。富岡はとんだ“流れ弾”を受けたのだと佐伯住職は考えている。
 


横浜海軍航空隊の格納庫。富岡総合公園近くの第一機動隊の敷地に内にある


「B29の搭乗員が、爆弾投下のスイッチを1秒早く、あるいは1秒遅く押した結果で、富岡の町に落ちたんだと思います。爆弾は高度数千メートルから落とすといいますから、狙ったところに着弾するのは難しいでしょう」

第1波の攻撃は横浜海軍航空隊、第2波、第3波の攻撃は日兵産業を狙ったのではと住職はいう。



空襲の事実を伝える供養塔



空襲は日曜日だったが、慶珊寺境内に安置された遺体が最後に引き取られたのは水曜日だった。
「一人のご婦人が娘さんのご遺体を引き取りにこられまして、父がいなかったものですから母に『お前拝んでおやり』といわれて、私がお経を唱えました。今でも覚えていますが、空襲の日、娘さんは『頭が痛い』というのを、そのご婦人は『みんな体を張って戦争しているのだから』と叱咤激励して無理やり送り出したんだそうです。そうしたら、空襲で亡くなってしまった。ご婦人は『私が殺したようなものだ。私が悪かった。ごめんよ、ごめんよ』と泣いていました。今でもよく覚えています。それが最後のご遺体でした」

戦争が終わってから、慶珊寺に来られて、境内にお花を供える遺族の方がいた。それを見ていた佐伯青年は、供養塔を作る必要を感じ、住職就任後真っ先に檀家の協力を得て、供養塔を建立した。
 


平和への思いを込めて


大きな犠牲を生んだ富岡空襲。この供養塔は、その事実をいつまでも語り伝えている。



取材を終えて



佐伯住職は、元高校教師である。1933(昭和8)年に富岡町に生まれ、早稲田大学教育学部を卒業後、和歌山県の高野山高等学校に着任し、その後に明倫高等学校(現横浜清風高等学校)教諭となり、やがて同校校長にまでなられた。専門は歴史。

そんな住職は、2013(平成25)年に『武州富岡史話』を著された。そこには富岡にかかわるさまざまな歴史が記されており、興味深い。
 


『武州富岡史話』


横浜大空襲に比較して、あまり回顧されることのない富岡空襲だが、多くの命が失われた小さなトンネルは、まだ残っている。ここに数十人の人が逃げ込んだとすれば、満員電車のようであったか。数百発の爆弾がこの町に降り注いだとは、現在の平和な光景からはどうしても想像できない。

戦争の取材は、常にみずからの想像力の限界との闘いである。平和な時代に生まれ育った私たちには到底、考えられない経験を、当時の人たちはくぐり抜けたのである。
腕や脚のもがれた遺体が、慶珊寺の美しい境内に並べられている光景は、いかばかりであったか。

今年は戦後70年。あの過酷な時代を生き抜いた人びとも、少なくなりつつある。貴重な歴史の証言を、これからも尊重していきたい。


─終わり─
 

参考文献
佐伯隆定『武州富岡史話』(慶珊寺)
 
 

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  • 73年前に空技支廠の勤労学徒のとき富岡の宿舎でこの空襲に出会い、同僚学徒たちを失い、宿舎の庭で野辺送りをしました、多くの犠牲者のでたトンネルの血生臭い匂いを思い出します

  • 記事の富岡にある富岡小学校は創立140年をこえる歴史の長い学校なのですが、富岡が開発された際に元々住んでおられた方からの農具やなにやらの寄贈を集めた郷土資料室という部屋が存在します。出身者のですが、そこに「爆弾の破片」なるものが合ったように記憶しています。まだあるかは分かりませんが...

  • さすがメディア!戦後特集も充実。わが実家からほど近い「富岡総合公園」の門柱に「横浜海軍航空隊隊門」と刻まれているとは知りませんでした。如何にぼんやり歩いているか思い知らされました。格納庫も残っているとは…。次回帰省の折に、お寺ともども訪ね歩きたいとおもいます。

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