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川崎の戦争遺跡、戦時中日吉の連合艦隊司令部に国外からの情報を送っていた「蟹ヶ谷分遣隊地下壕」とは?

ココがキニナル!

昔、蟹ヶ谷に日本軍の通信基地があったそうです。具体的には何をするための施設だったのでしょうか?また、蟹ヶ谷のどのあたりにあったのでしょうか?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

蟹ヶ谷バス停のほど近くにあった海軍の通信施設・蟹ヶ谷分遣隊地下壕は、国内外の通信を傍受し、内容を日吉にあった連合艦隊司令部に送信していた

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ライター:細野 誠治

記憶を手繰る。平和都市で資料を探す。
 


昔、川崎市・高津区蟹ヶ谷に基地があった


筆者の実家は港北区・日吉にあり、過去の朧(おぼろ)げな記憶にも蟹ヶ谷の「基地」跡の風景が残っている。確か鉄塔のようなものが、ポツンとあった。

地元の日吉から井田、下田町や高田と、無数の防空壕が残り、蟹ヶ谷を含め当時の子どもたちは「決して近づいてはいけない」と教え込まれてきた。
 


横浜市港北区から川崎市にかけて多数防空壕があった


30~35年ほど前までは、あちらこちらに、入り口をトタンで塞いだだけの壕がたくさんあったのだ。

そんな思い出が、キニナル投稿の文面から蘇った。
調べてみよう。あれから数十年。久しぶりに蟹ヶ谷を訪れてみた。
 


蟹ヶ谷へは武蔵小杉か武蔵中原から川崎市営バス「杉10」系統で
 

久しぶりに訪れた蟹ヶ谷は、変わっていた


記憶にある風景は山と田畑、人家が点在している場所だった。今あるのは乱立するマンション群や分譲住宅。それらによって形成されているベッドタウンだ。

しばらく辺りを散策するが、当時の記憶とは一致しない。そして当時「基地跡」だと教えられた場所も見つけることが叶わない。

脚が駄目なら記録を調べよう。川崎の郷土史料を当たることに。
バスで川崎市中原区の武蔵小杉へ。
 


駅直結の中原図書館へ
 

こちらで3冊の史料を入手


『平和ウォーキングマップ川崎』:教育史料出版会
『京浜地区の捕虜収容所 中間報告書』:笹本妙子・著
『神奈川の戦争遺跡』:大月書店

該当箇所を読み込み、隣駅へ。東急東横線・元住吉駅から徒歩10分のところに戦争に関する史料がある。
 


綱島街道沿いにある中原平和公園を目指す
 

公園に隣接して川崎市平和館がある


ここ、川崎平和館は「核兵器廃絶都市宣言」をした川崎市が1992(平成4)年4月15日(川崎大空襲があった日)に開館した、平和への理解を促進し、啓発の場とするための施設。
 


戦争のほか、平和を脅かす暴力や差別、貧困や環境破壊などの平和問題を展示

 
来意を告げ、館の専門調査員の方をご紹介いただく。
 


暉峻僚三(てるおか・りょうぞう)氏にお話を伺う

 
施設内の2階に「蟹ヶ谷の基地」に関する史料があるという。
「非常に数が少ないのですが」という暉峻氏に案内され、展示ブースへ。
 


「川崎大空襲 映像室」の一角にブースはあった
 

入って左側の端に史料が
 

これが「史料」のすべて

 
まず、追ってきた「蟹ヶ谷の基地」の正式な名称が判明する。

名前は「海軍東京通信隊 蟹ヶ谷分遣隊(ぶんけんたい)地下壕」。

一体、いつ作られ、どのようなことを行っていたのか?
通信基地が作られたのは1930(昭和5)年6月。
時の大日本帝国海軍は、世界中の通信(情報)を傍受するため、蟹ヶ谷に短波受信専門の通信隊を置いた。
 


1958(昭和33)年に撮影された蟹ヶ谷分遣隊の様子
 

やがて開戦。東京都千代田区霞ヶ関1丁目に海軍東京通信隊の本隊を置くと、千葉県船橋市(船橋分遣隊)と横浜市戸塚区(戸塚分遣隊)に「送信」専門の施設を設置する。

しかし、今回キニナル投稿された「蟹ヶ谷分遣隊」は「受信」を行っていたという。
短波・長波の無線を傍受し台湾沖海戦、フィリピン海戦、沖縄戦などの攻防をいち早くキャッチし横浜市港北区日吉にあった連合艦隊司令部に全長約2キロに及ぶ地下ケーブルを通し、傍受した通信の内容を伝えていたという。
 


日吉の慶應義塾大学の地下に置かれた連合艦隊司令部へ

 
また戦時中、国内の基地で交わされていた通信はもちろん、敵国の通信も傍受。
「当時、国内でただひとつしかなかった最高レベルの機械が設置されていました」と暉峻氏。

地下壕が作られたのは1943(昭和18)年。
戦況が悪化し、南方戦線の基地が堕とされだしたころ。あの戦争の“終わりの始まり”が顔を覗かせた時期だ。
 


地図『井田』川崎市土木部都市計画課 昭和17年12月版より