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ココがキニナル!

昭和初期の磯子は、景色や地の利の良さで訪れる人が増え、料亭が軒を連ね芸者さんもたくさんいたそう。大人の歓楽街としての写真とか、その名残の建物などは残っているのでしょうか。(エルコラソンさん)

はまれぽ調査結果!

磯子は昭和以前から花街が形成され、昭和30年代半ばに最も隆盛を誇ったが、時代とともに消滅した。その跡をとどめるようなものは残っていない。

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2015年09月30日

ライター:松崎 辰彦

磯子には花街があった

はまれぽではこれまでも「花街があった開発前の『上大岡』の歴史について教えて!」あるいは「花街として栄えたころの『鶴見三業地』を徹底調査!」といった記事の中で、横浜にあった花街について取り上げている。
そして今回は大正、戦前、そして昭和30年代ごろまで磯子にあった花街を調査されたし、とのご依頼である。
 


JR磯子駅

 
現在はJR根岸線をはさんで工業地帯となった磯子の街に、その昔潮風と波音を背景に三味線の音が鳴り響き、芸妓の扇が艶やかに舞っていたことを思うと、まさに諸行無常の感抑えがたきものがある。
時代の移り変わりを感じつつ、街角に芸妓の残り香を求め歩いてみた。



時代とともに大きく変わってきた磯子

磯子は度重なる埋立てにより、横浜市の中でも特に大きく相貌(そうぼう)を変えてきた街である。
かつては海が内陸に大きく迫り、海苔の養殖が行われ、海水浴も盛んだった磯子は、日本の近代化や高度経済成長の過程で大幅な工業化へと舵を切り、海を工業用地に作り替える道を選んだ。
 


 

 

  1955(昭和30)年ごろ、磯子で行われていた海苔の養殖
(『浜・海・道』横浜市磯子区役所発行1988〈昭和63〉年より)

 
波と潮風が踊っていた空間に工場の白い建物が立ち並び、銀色に輝くプラントが屏風のように遥か向こうへの視線を遮り、海水浴にはしゃぐ子どもたちの歓声の代わりに行き交う自動車の音が大きくなったこの街に、数十年前の風情を見つけることは難しい。
 


海水浴も盛んだった(『浜・海・道』横浜市磯子区役所発行1988〈昭和63〉年より)
 

 

 

かつての海が埋めたてられ、工業地帯となっている

 
当時の磯子は海岸沿いに料亭が立ち並ぶ花街であった。
海に面した海岸料亭という地の利を大いに生かして、有名な料亭「偕楽園(かいらくえん)」などは海軍御用達として戦時中の食糧事情の悪いときでも豊富な食材を誇ったと言われる。

しかしその後、時代は移り変わり、工業化の波が押し寄せる中で、料亭も、そしてそこで活躍した芸者衆も姿を消したのである。



海岸沿いに花街が作られた

磯子はどのような変化を遂げたのか。ここではまれぽ記事「開港前の横浜、旧海岸線を探し歩く旅! 鶴見区~神奈川区編」で活用された「国立研究開発法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム」で、昔と今の磯子を見比べてみたい。1880(明治13)年から1886(明治19)年の間の磯子と、現在の磯子はどれほど変わっただろうか。
 


新旧二つの磯子

 
現在の磯子には湾岸沿いに、かつてはなかった直線で囲まれた土地がゴジラの背びれのように浮かび上がっている。言うまでもなく人間が作り出した埋立地である。

「磯子区の面積約19平方キロメートルのうち、埋立地が四分の一を占めているが、そのほとんどは戦後の僅かな期間に造られたものだ。しかし、根岸湾埋立ての計画は古く、それが始めて登場したのは明治三一年のことである」

磯子の今昔を記録した『浜・海・道』(横浜市磯子区役所発行1988〈昭和63〉年)は述べる。

「海岸沿いの平坦な道路を造ろうとした葦名金之助が、東京の大手建設業者、安藤庄太郎の資金援助を受けて、浜から今の区役所付近までの海を埋めた。これによって、県道(現・国道一六号線)が開通し、住宅用地も完成。二人の名前は葦名橋、安藤橋として残されたが、川の暗渠化によりその橋も既になくなってしまっている」
 


 

葦名金之助(あしなきんのすけ)、安藤庄太郎(あんどうしょうたろう)の名を今に伝える橋

 
こうして生まれた土地の海沿いにできたのが、花街であった。『浜・海・道』を読み進めよう。
「浜埋立地の一角に花柳街が形成されたのは、大正時代である。関内、関外、日本橋に次ぐ街として、蒔田や大久保などよりも格は上だったという」

──こうした街には「二業地」「三業地」の区分があることはご存じであろう。
二業地とは芸者屋と料理屋のある地域、三業地とは芸者屋と料理屋に加え待合茶屋がある地域であり、そのなかで磯子の花街は二業地であったと言われる(後述するが「二業組合」があった)。

待合のない歓楽街ということになるが、待合茶屋とは男女の密会場所になる空間でもあり、それがないということは磯子の花街は健康な明るいものだったということなのであろうか(ただし待合があったという資料もある)。
 
 

 

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