時代とともに姿を消していった横浜の貨物鉄道とは? 東高島駅の歴史を追う!(後編)
ココがキニナル!
日本貨物鉄道株式会社の「東高島駅」ってどんな駅ですか?気になります...(おにいさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
2005年の貨物発着を最後に事実上信号場となるも駅舎やホーム跡を残す東高島駅だが、周辺には再開発の計画が進行中。見に行くのなら今のうちなのだ
ライター:永田 ミナミ
戦後の東高島駅と貨物鉄道
前編では1859(安政6)年の開港から東高島駅が開業した1924(大正13)年を経て、太平洋戦争開戦前夜までをたどった。
1935(昭和10)年時点の東高島駅周辺の貨物路線網はこんな感じであった
さて、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まると、1942(昭和17)年4月1日には横浜港駅での貨物取扱いは横須賀鎮守府管下海軍官衛関係に限定され、ボートトレインは廃止。軍用貨物駅となった。
そして1944(昭和19)年には東高島駅から分岐する山内町駅が横浜市場駅に改称
現在の横浜市中央卸売市場水産棟がある場所にあったため改称されたのだろう。戦況が刻々と悪化していくこの時期になぜこのような改称がおこなわれたのか謎だが、目を通した限りの資料では改称の事実に触れているだけだった。
衛星画像で見ると
横浜市場駅への路線の名残を見ることができる
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、横浜駅、高島駅、海神奈川駅、千若信号場、表高島駅、東神奈川駅、入江駅などは駅舎焼失など大きな被害を受けたが、東横浜駅、横浜港駅は被害が少なかったため、敗戦後は米軍に接収されることになる。
空襲直後の桜木町駅上空から見た光景(横浜市史資料室提供)
瑞穂駅は瑞穂埠頭が米軍に接収されたため使用禁止になるが、1947(昭和22)年に瑞穂支線のみ日本の使用が許可される。
1955(昭和30)年、東高島駅の扱いが東神奈川~高島支線の駅から高島線の駅となり、千若信号場が東高島駅に統合されるかたちでなくなる。これによって瑞穂支線の起点駅が入江駅(高島線上の新子安付近の貨物駅)から東高島駅に変更される。
歴史的に見て、東高島が最も脚光を浴びたのはこの起点駅時代と言えそうだが
そんな華やかな時代も1958(昭和33)年の東高島~瑞穂間廃線と瑞穂駅廃止により3年で終わる
それから57年が過ぎ、来ない列車を待ち続ける線路は今も瑞穂埠頭の先まで続いている
翌1959(昭和34)年には東神奈川~東高島間、東神奈川~海神奈川間が廃線、海神奈川駅も廃止
1962(昭和37)年には高島~東横浜間が単線化されるが、これは高島線の貨物列車が根岸線に乗り入れる準備であった。1964(昭和39)年5月19日に桜木町~磯子間が延伸、開通し根岸線となる。
そして1964年6月1日に高島~桜木町間が単線で開通。磯子駅までの貨物輸送を開始
翌1965(昭和40)年には山下埠頭まで貨物線が非電化で開通し、山下埠頭駅が開業した
1958(昭和33)年に山下埠頭が完成してから開通までに7年もかかったことになるが、これは当初の計画が貨物線の高架が山下公園内を横断するものだったため景観問題が浮上し工事が遅れたことによる。最終的に公園内の最も陸側に当初の計画よりさらに高い高架線をつくることで実現した。
1980(昭和55)年の横浜開港120周年のときには蒸気機関車の記念列車が走った(フリー画像)
かつてはここから先にも下の遊歩道に沿って山下埠頭に向かう高架が続いていたのである