横浜の「昭和のあの場所」は今どうなっている? 根岸線沿線を歩く旅
ココがキニナル!
昭和を代表する一大イベント、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピック。写真に収められた当時の横浜の姿を追って、根岸線沿線を旅した。
ライター:細野 誠治
アジア初、半世紀前に開催された五輪都市・YOKOHAMAへ
ゴールデン・ウイーク初日。皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
きょうは「昭和の日」(元は昭和天皇の誕生日として。その後、みどりの日を経て昭和の日となりました)。この日は平成のひとつ前の元号、激動の時代・昭和を顧み、国の将来に思いを致す日とされています。
敗戦からの復興。そして奇跡の高度経済成長を遂げた昭和という時代
昭和のころの横浜って?
そんなキニナル疑問を持ち昨年、さまざまなスポットの今昔を探りました。
昨年の様子は「こちら」←クリック
反響をいただき今年もやります、第2弾!
昭和と平成、横浜はどう変わった? 何があった? そんなキニナルを掘り起こします。
まずは歴史を紐解くべく、中区の横浜市中央図書館へ
地下1階の市史資料室で資料写真と格闘すること、しばらく。年表に「オリンピック」という文字が見える。
そういえば、今年はオリンピックイヤーだ(2016年リオデジャネイロ五輪)。
そして次回2020年、再びの東京オリンピックが!
前回の東京五輪が開催されたのが1964(昭和39)年、今から52年前のこと。
世界平和の象徴であり、戦後復興の結実として。また国際舞台への復帰という、国の威信や国民へ向けた国威発揚の観点もあったであろう大会。
開催当時の横浜は、どんな様子だったのだろう? ムクムクと好奇心が沸く。そうだ、今回は年代をひとつに絞って追ってみよう。
・・・というワケで、時計の針をギリギリと巻き戻すことに。
目的地はアジア初開催の五輪の舞台、1964(昭和39)年の横浜へ。タイムスリップだ!
最初の舞台は横浜駅(戻ってきました、細野誠治です!)
1964年の横浜駅西口写真は無かったものの、最も近いものがこちら。
横浜駅西口。1962年撮影 横浜市史資料室(広報課写真資料)
この写真の2年後にオリンピックが開催。54年前の横浜西口の姿。
そして訪れた理由がもうひとつ。1964年という年は横浜にとって重要な意味を持つ。
それは根岸線の桜木町駅~磯子駅間が延伸開業した年でもあるということ
お馴染みの関内駅、石川町駅、山手駅、根岸駅、磯子駅もこの年に開業(はい、拍手!)。
背景はこんな感じ。高度経済成長の只中。急務のインフラ整備によって市内は発展著しく活況を呈していた(東海道新幹線の開業も同じ年)。この状況に追い打ちをかけるようにオリンピックの開催が決定。そして競技会場が東京だけでなく、横浜へも分散されることに。
横浜エリアの競技会場への観客輸送の観点からも、根岸線の延伸開業は重要な意味を持つんですね。
そんな、根岸線
では、なぜ東京オリンピックの競技会場が横浜にやってきたのか?
誘致に尽力された方がいる。会いに行こう。
市民スポーツの父がいる、三ツ沢陸上競技場
横浜駅から三ツ沢公園へ
園内の陸上競技場トラック前に「平沼さんの像」という銅像が建っている。
聖火を掲げ持ち走る姿
戦後、横浜市長を務めた平沼亮三氏(1879~1959)の銅像。彼は「市民スポーツの父」と呼ばれた人物で、日本にオリンピックを誘致するため粉骨砕身した方。
平沼さんの像は陸上競技場前にあります
1936(昭和11)年、大日本体育協会の副会長を務めていた平沼氏らの尽力によって東京オリンピックの開催が決定。しかし2年後の1938(昭和13)年、前年に勃発した日中戦争により開催返上を余儀なくされてしまう(幻のオリンピックだ)。
五輪返上から21年後。敗戦を挟み、再び東京でオリンピック開催が決まる。すると自治体の認知、集客、インフラ整備網の充実が期待できるとして周辺の自治体から強烈な誘致合戦が起こった。
さまざまな思惑の後、横浜市はサッカーの試合をここ、三ツ沢公園球技場で。バレーボールとバスケットボールの予選を横浜市文化体育館で開催と、3競技の誘致に成功する。
いつか平沼市長の功績を詳らかにしよう・・・
個人的な思いもあるのだが、横浜は誘致に関して一日の長があったのだと思う。平沼氏のDNAだ。
ここで見つけた写真は1958年の「日米陸上競技横浜大会」
横浜市史資料室(広報課写真資料)
昔から横浜は、スポーツ誘致に力を入れていたことがよく分かる。この写真の6年後にはオリンピックを呼んでいるのだ。いいぞ、横浜!
同じ構図で撮影を・・・
変わっていない。変わったのは競技場の外だ