横浜ひと筋25年。ハマの番長、三浦大輔投手の引退会見をレポ―ト!
ココがキニナル!
25年間、横浜を支え続けた。ハマの番長、三浦大輔投手の引退会見の様子がキニナル(はまれぽ編集部のキニナル)
はまれぽ調査結果!
勝てなくなったのでケジメをつけると決意。涙で「苦しいときも一緒に戦ってくれたファンはチームメイト」と最後までファンへの思いを口にした。
ライター:山口 愛愛
番長、男のケジメをつける
1992(平成4)年10月7日、エースであった遠藤一彦(えんどう・かずひこ)投手の引退試合でもある、横浜大洋ホエールズとしての最終戦。満員のハマスタに駆けつけると、最後の2インニングは高卒ルーキーでドラフト6位入団の三浦大輔(みうら・だいすけ)投手がプロ初登板し、ぴしゃりと打者6人を抑えた。奇しくもエースの世代交代となったあの日から25年。ずっと横浜で投げ続け、プロフェッショナルであり続け、チームを支えてきたハマの番長。
2016(平成28)年は42才現役最年長でシーズンを迎えた
肝機能障害で入院しても、首位から42.5ゲーム離されても、突然のルール改定で2段モーションを禁じられても常に上を見据えて立ち上がった。フリーエージェント(FA)権を取得し優勝争いできる阪神から破格の条件で誘われても残留し、チームとファンとともに横浜で優勝することを本気で目指し、四半世紀もの間、突っ走ってきた。
1993(平成5)年にプロ初勝利を完投で飾ってから積み上げた172勝。23年連続勝利のプロ野球タイ記録に並び、24年連続勝利のプロ野球新記録がかかるこの年にケジメをつけ、ユニホームを脱ぐ。
唯一、3球団の歴史を知る選手
球団史上初のクライマックスシリーズ進出を決め、チームもファンも高ぶっていた、その翌日、突然の引退発表だった。9月20日の午後、横浜市内のホテルで会見が開かれ、男の決断の真意が明かされた。
もちろんスーツにリーゼントで登場
「わたくし三浦大輔は今シーズン限りで引退します」。穏やかな表情で切り出した三浦投手。
「高校を卒業し横浜大洋ホエールズに入団して、25年間、横浜の街で育てられてたくさんの方に応援いただき、ここまでやってくることができました。嬉しかったこと、苦しかったこともありましたけど、みなさんに支えられ1歩ずつ進むことができました」
「クライマックスシリーズも決まり、自分の気持ちもまっとうして終わろうと。まだ残り(試合)もありますが、1日でも長くユニホームを着て今の選手たちとやっていけるようにしたいと思います」
「家族に相談し最終的に自分で決めました」
会見に同席した高田繁(たかだ・しげる)ゼネラルマネージャーが「16日の甲子園の阪神戦の後に球団社長と監督と3人がそろったところで三浦選手から申し出がありました。三浦選手が大変悩んで出した結論、了承するしかなかった。チームとして大きな柱を失い痛手ですけど、今後ともチームの力になってもらいたい」と説明。
高田繁ゼネラルマネージャー
続いて球団スタッフより、三浦投手の功績に敬意を表し、18番の背番号は、プレイ、振舞いともにチームを牽引する、象徴する存在がつける「横浜ナンバー」とすることを発表。
相応しい存在が出るまで、欠番とし、相当する選手の候補が上がったときに球団と三浦投手が協議のうえ、検討することとなる。
「18の重みのわかる選手につけてほしい」と三浦投手
ここからは記者からの質問に三浦投手が答えていった。
引退の決断の理由は「勝てなくなったからです」ときっぱり。「引退の文字は数年前からあり、もっと勝ちたい気持ちがありましたが、先発ができなくなったら、勝てなくなったらやめると決めていた」
「(今シーズンの)7月の初登板で打たれて8月まで(1軍での登板に)声がかからず、ほぼ気持ちは固まっていた。ただもう1度勝負したい気持ちもあった。9月に甲子園の先発を任され、それまでは球団に伝えないと決めていました。その感情を抜きに真剣に勝負したい。今シ―ズンまでとの思いもあった」
家族やチームメイトはまだやれると惜しんでいるが、「チーム状況や現状を考え、8月まで勝てなかったのが大きかった。自分で決めなきゃいけない、甘えちゃいけないなというのは常にあった。どこかでケジメをつけなければいけない」と決断をくだした。
チームメイトに「やめないでください」と言われて嬉しかった