焼夷弾は「地獄の音」 横浜大空襲体験者が語る戦争の悲惨さとは
ココがキニナル!
横浜大空襲を経験した打木松吾(うちき・しょうご)さんに話を聴く。
はまれぽ調査結果!
三春台に住んでいた打木氏は家を焼かれ、多くの遺体を目撃した。焼夷弾は「地獄の音」がしたという。
ライター:松崎 辰彦
毎年訪れる5月29日。いうまでもなく1945(昭和20)年のこの日に、横浜大空襲の惨禍が人々に襲いかかった。
焼夷弾(しょういだん)の炎に包まれた横浜市街(出典:横浜市史資料室)
はまれぽでは今までも数多くの戦争体験者の証言を取り上げているが、今回は当時南区三春台に居住していた打木松吾(うちき・しょうご)氏の話を取り上げたい。
現在は横須賀市にお住まいの打木氏は1831(昭和6)年生まれの85歳。杖は突きつつもお一人で自由に歩かれる。
「いや、いろいろ病気を抱えてなんとかここまでもってきています」
そう述懐(じゅっかい)されるが見たところお元気で、快活なご様子。お顔の血色もよい。
打木松吾氏。柔らかな口調で訥々(とつとつ)と話される
打木──“ウチキ”という姓にはまれぽ読者はピンとくるだろうか。そう、横浜市中区元町の「ウチキパン」。その縁者かとお尋ねした。
元町にあるウチキパン
「安政6年生まれの祖父によると、ウチキパンの方とは遠い親戚だそうです」
1859(安政6)年とはまさに横浜港が世界に向けて開港した年である。
1859(安政6)年生まれの祖父・藤吉(とうきち)氏と松吾氏
こんなやりとりのあと、打木氏は静かに生い立ちと戦争の記憶をたどった。
「この戦争は勝てないだろうな」──太平洋戦争勃発
「生まれたのは横浜市南区三春台です。兄弟姉妹のいない一人っ子でした。父は横浜地方裁判所の書記官で、私は西区の一本松小学校を卒業しました」
太平洋戦争が開戦したときは小学生で、日本が連合国と戦争に入ったことを親や教師から聞かされたという。
1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった(Wikimedia Commons)
打木氏は「『この戦争は勝てないだろうな』と子ども心に思いました」と述べるが、もちろんそのことを親や教師には口にしなかった。
「そんなことを考えているなんて知られたら、ひどい制裁を受けて袋叩きにされた時代ですから」と当時の風潮を語る。
当時の打木氏の写真。今はなき百貨店「野澤屋」の屋上で撮影した
戦争が始まったが、父は招集されなかった。年齢が高かったからだろうと打木氏は推測する。
横浜大空襲については「よく聞かれるんだけれども、昭和20年5月29日は今から72年前のことでほとんど記憶にないんですよね」と打木氏。
しかし詳しくお話を伺うと、生々しい当時の情景が消えることなくその脳裏に残存していることが分かった。
「きょうは横浜が危ない」
「あの日のことははっきりとは記憶にないんですけれど、午前7時前後に家を出たと思います。学校に着いて鞄を置いて、級友と雑談していたのかな、すると教師が飛んできて各教室に『きょうは横浜が危ない、すぐ帰れ』と言って回るんです。私は先生がこう言うのだから非常事態だなと思い、脱兎(だっと)の如く学校を出ました」
いつ警戒警報が発令され、またそれがいつ空襲警報になったのか、通学途中の自分には全然分からなかったと打木氏は回想する。
当時通っていた中学校は現在の横浜線大口駅の近くにあった。三春台の家から中学校まで電車でおよそ1時間だった。
JR大口駅。この近くに打木氏の通っていた中学校があった
「湘南電車(注・正式には湘南電気鉄道。現在の京浜急行)で通っていたんですが、その日はなかなか電車が来ないんです。私は早くしないと爆撃でやられてしまうと思い、駅を出て今度は市電を待ちました。すると運良く電車がきて飛び乗りました」
「車中では何を考えていたか覚えていません。おそらく緊張していたでしょう」と回想する。
2017年の「『5・29』横浜大空襲祈念のつどい」でも話をした打木氏
電車は進み、久保山まで来た。山の頂上あたりだったが、運転士が「ここから先は危険ですから降りて下さい」と乗客に呼びかけて、皆降ろされたという。
電車を降りた打木少年の目に映ったのはこちらに向かって飛んでくるB-29の巨体であった。
焼夷弾は“地獄の音”がした
「その時の私の目線と大差ない高さだったから地上から400メートルから500メートルの高さだったでしょう。B-29はジュラルミンでできていて太陽光線が当たるとメラメラ光ってね。でも前の方だけガラスで覆われているから操縦している兵隊の顔が見えたんです」
「空の要塞」と言われたB-29 (Wikimedia Commons)
大挙して押し寄せるB-29を見つめていた打木少年はここで爆音に気づいた。
「野毛山動物園があるでしょ、当時はあそこに高射砲があったんです。暁(あかつき)部隊という部隊が操作していました。おそらく5~6門あったと思いますが、高射砲でB-29を撃つんです。しかし直接は当たらない。空中で破裂してその破片が当たったりもするんですが、墜落はしませんでした」
飛行機を狙う高射砲 (Wikimedia Commons)
現在の野毛山公園。ここにかつて高射部隊の本部が置かれていた
「そんな様子を『すごいな!』と思って見ていたら、そこにいた警護団のおじさんから『そこの学生、危ないから防空壕へ入れ!』と言われて近くの防空壕に入りました」
当時の防空壕 (Wikimedia Commons)
その防空壕には30人ほどの人がいたという。しかし防空壕の上の家が燃えたから逃げてくれと言われ、また外に出た。
すでに空襲は始まっていた。
爆撃を受けて炎上する横浜市内(出典:横浜市史資料室)
「伊勢佐木町を見ても黄金町を見ても黒い煙で真っ暗なんです。昼間なのに夜のように真っ暗になったのは初めてでした。私はその光景を見たら怖じ気づいちゃいましてね」
横浜大空襲直後の様子。ガレキに埋もれた伊勢佐木町通り(出典:横浜市史資料室)
腰が抜けたようになり、これは自分の家もやられただろうと思った。家まで500メートルほどの距離だった。
「よく夢の中で走っても走っても前に進まないというのがあるでしょう? ああいう状態でした。電柱が燃えていて、道路を行くのは熱いんですよ。当時の電柱は木でしたから油脂焼夷弾がぶつかれば燃えるんです」
ようやく家に帰ると母親がいた。ホッとしたのも束の間、母に「お前防空壕入れ!」と指示された。
「お袋は当時、隣組(近隣の数世帯を単位として空襲時の防空活動などを協力して行った地域組織)の組長をしていました。それで近所の老人の面倒を見なくてはならず、私だけ先に逃がしたわけです。気丈な母でした」
左から2人目が打木氏の母。日の丸の旗をもっているのが打木氏
帰宅した時点ではまだ打木氏の家の周りは無事だったので、黄金町から久保山へ避難してきた人たちが「入れて下さい」と押し寄せてきた。
「当時の防空壕は木造家屋の下に穴が掘ってあって、空襲でその上の家が燃えちゃったら防空壕の中は蒸し焼きになる。今思えばあんな危険なものはないでしょう・・・」と打木氏。
子どもながらにその危険性を感じたのか、「私はこのままここにいては死んでしまうかもしれないと思い、防空壕を出ました。するとそこに焼夷弾が降ってきたんです。焼夷弾が降ってくるときサーっという不気味な音がするんですよ。地獄の音ですね・・・
そのときお袋が『松吾、お前先に逃げろ!』と言ったので、久保山の火葬場の方へ逃げました」
広大な墓地のある現在の久保山