小田急線百合ヶ丘駅近くの360度道路に囲まれた飲食店「みねや」ってどんなとこ?
ココがキニナル!
川崎・百合ヶ丘駅北側の「みねや食堂」の立地なんですが、店舗周囲360度が路面です。取材してください。(マッサンさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
みねやは百合ヶ丘駅近くで営業している料理屋さん。開店当初から周囲は道路に囲まれていた。元芸能人の店主は地元では有名な人物だったとのこと
ライター:松崎 辰彦
百合ヶ丘駅にある「みねや」
川崎市麻生区にある小田急線百合ヶ丘駅。新宿駅から出発すると新百合ヶ丘駅の一つ手前の駅である。
百合ヶ丘駅
プラットホームに降り立ち、北口から外に出ると眼下に世田谷町田線の道路が走っている。
投稿にある「みねや」は駅のすぐそば、道路ぎわにたたずんでいる。
「みねや」の看板が見える
迷うまでもない。
みねや
小さな一軒家。もう長らくここで商売をしてきたであろうことは、その風格から否応もなく察せられる。
「360度が路面」とのことだが、周囲を観察するとなるほどたしかに道路に囲まれている。
背後から。三方が道路に囲まれている
周囲に同じような場所もなく、ポツンと孤立している感じもするが、一種存在感のある店構えである。
ともかく中に入ろう。お邪魔します!
コンビニのない時代、みねやは人気店だった
「このお店は私の母が自分の兄、私からすれば伯父(おじ)から買ったものです。伯父は、東京都大田区蒲田にいたんですが、昭和30年代にここに移り、この店で寿司屋を始めました。そのときから屋号は『みねや』です」
話してくれるのはこのお店のご主人、海川一(うみかわ・はじめ)さん。小さなお店を切り盛りしている。
海川一さん
お店の歴史から教えてくれた。
「伯父はここを皮切りに、付近で同じ『みねや』という寿司屋を何店舗も開店しました。そして妹である私の母に『この店を買わないか?』と持ちかけたんです。母ももともと東京都大田区にいたんですけれども、当時は川崎市柿生に飲食店を出していました。その店も儲かっていたのですが、母は伯父からやはり昭和30年代にこの店舗を買い取り、ここに移りました。最初母は焼き肉屋をやり、そのあと居酒屋になりました」
一さんの母親、海川千代子(うみかわ・ちよこ)さん(画像提供:海川一)
店内はせまい。席はカウンターのみ、数人も座ればいっぱいである。
カウンターは7席
「昔景気がよかったころは、外で客さんが列を作って待っていましたよ。あのころはお店もなかったし、コンビニなんてものもなくて、時代がよかったんですね」
当時から地元の根強い固定客に支えられているようである。
「このあたりには独身寮がいっぱいあったんです。富士通とか大手の独身寮が。そこの人たちが『寮のご飯はおいしくない』とかいいながら食べにきていました。みんな地方からきた男の子たちですよ。その子たちに朝なんかはお握りを作ってあげていました。みんな持って帰るんです」
母親代わりだった様子である。
そんな千代子さんも2017(平成29)年、90歳の天寿を全うした。
かつて芸能界にいた
ほかの食品関係の店で働いていた一さんが、実家であるこの店に帰ってきたのは20代のころ。
一さんは1956(昭和31)年12月8日東京生まれ。当年62歳、可愛いお孫さんもいる。
父親は東京電力に勤めていたが、若くして他界した。その後は母親の千代子さんが一さんら兄弟を育てた。
母親(左)と(画像提供:海川一)
そんな一さんにはユニークな経験がある。13歳から芸能界で活動したのである。
「大手の芸能プロダクションと劇団に入っていました。映画なんかにも出て、自分のレコードも出したりしました」
中学生時代。すでに芸能人だった(画像提供:海川一)
高校は東京都中野区にある、芸能コースが有名な某高校。郷ひろみや野口五郎といった当時のスターたちとも知り合いだった。
ステージや映画で活躍した(画像提供:海川一)
「みんなオーラがありましたね。ふだんは女性の親衛隊に囲まれていました。彼女たちはどこにでもついていきます」
芸能界の裏話にもくわしい。
そして一さん自身、地元では有名人だった。
「バカ息子と呼ばれていましたね・・・ここは地味なおとなしい街ですから」
成田空港で。「税関で別室に連れて行かれ『麻薬を出しなさい』と言われました」
(画像提供:海川一)
耳にピアスをしたり、相当目立つ格好で歩いていたとのこと。車も好きで、若いころから外車に乗っていたそうである。
車が好き。中で立っているのが一さん(画像提供:海川一)