かつて藤沢市に存在した「藤沢飛行場」が作られたわけとは?
ココがキニナル!
藤沢に存在した「藤沢飛行場」。跡地は荏原製作所となり敷地から燃料庫を発掘。飛行場跡地の隣接地には関東航空計器が、その敷地に「東洋航空工業株式会社」時代の建物がある(goigoiさん/iidag9さん)
はまれぽ調査結果!
藤沢飛行場は1944(昭和19)年に海軍航空隊の関連施設として作られた。戦後は米軍に接収され、その後、東洋航空工業株式会社という民間の航空会社が経営した
ライター:小方 サダオ
相模湾の近くにあった「藤沢飛行場」
投稿によると藤沢市にかつて「藤沢飛行場」というものがあったという。地図で見ると北側の大和市と綾瀬市にまたがるところに「厚木米海軍飛行場」があるが、何か関連はあるのだろうか。
江ノ島へとつながる国道467号線に沿った場所にある、飛行場の跡地という小田急江ノ島線の善行駅近くの現場に向かった。
投稿の「藤沢飛行場」があった場所(青矢印)、厚木米海軍飛行場が赤丸(© OpenStreetMap contributors)
善行駅の周辺は起伏が大きい。駅は高い場所にあるがその周囲は低く下り坂になっている、こんなところに飛行場を作れるのだろうか。藤沢飛行場について、住民へのインタビューと資料をもとに紐解いてみる。
丘の高い場所にある善行駅
駅の西側の坂を上ると投稿の荏原(えばら)製作所があるが、周辺住民のお話ではこのあたりに「藤沢飛行場」があったという。また戦時中は海軍の飛行場であり、その司令部が神奈川県立体育センターの敷地内にあるグリーンハウスだったとも伺ったため、まずはそこに向かった。
善行駅近くの神奈川県立体育センター(青矢印)、投稿の荏原製作所は赤丸(© OpenStreetMap contributors)
藤沢飛行場にまつわる周辺住民の思いとは
駅の東側にある県立体育センターの敷地は広く、陸上競技場と体育館に挟まれた場所に、西洋建築の古風な建物があった。
神奈川県立体育センター
このグリーンハウスの前にいた地元の男性に伺うと「戦時中はここで訓練していた少年兵たちが、朝夕国道を隊列を組み、教官に後ろから銃で突かれながら走っていたのを憶えています」と話してくれた。
また、藤沢飛行場について「戦後飛行場は東洋航空工業という会社のものになり、ベトナム戦争時に米軍の戦闘機を生産したりしましたが、その後は発注なくなったことなどで倒産しました」という。
旧藤澤カントリー倶楽部のクラブハウス「グリーンハウス」
敷地内には、善行の歴史に詳しい善行雑学大学の関係者が作ったというグリーンハウスの歴史を解説した看板があった。
看板には「この建物は、1932(昭和7)年開場のゴルフ場『藤澤カントリー倶楽部』のクラブハウス」とあり、「ゴルフ場は太平洋戦争が激しさを増すとともに海軍に徴用され、1943(昭和18)年に閉鎖した」とあった。また、閉鎖後は、クラブハウスの愛称が「グリーンハウス」になったという。
グリーンハウスの解説板
続いて駅の西側に移り、91才の地元の男性に伺うと「戦時中飛行場には滑走路があり、南に向かって飛び立っていました。約12機の飛行機が滑走路の上に置かれていましたが、ほかの数機は近くの山の防空壕の中に隠していました」
「終戦間近には、米軍機が低空で飛行場を機銃掃射して攻撃してきました。飛行場所属と思われる荒木大尉というパイロットが迎え撃ったのですが、気の毒に味方の対空機銃にやられて墜落したのです。近年までその供養塔が町内に建てられていました」とのこと。
荏原製作所の大部分は藤沢飛行場の敷地内だった
また高台に住む古くからの住人は「敗戦前に急場しのぎで作られた、管制塔もない体裁だけの空港でした。近くにある格納庫から飛行機を出し飛行場に運んで飛ばしていたのです。私の家にも10名ほどの海軍の将校が泊まっていました。飛行場にはB29が何度も空襲に来て、日本軍の防空壕がいくつもありました。飛行場の近くにあった私たちの畑にも海軍の燃料庫が置かれていました。当時は一般的な燃料が少なかったため、松の木の油を使った松根油を用いていました」という。
「戦後は駐留軍がやって来て、クラブハウスを司令室にしていました。何度かダグラスという米軍の戦闘機が飛行場で着地の訓練のようなことをしていましたが、距離が短いのかオーバーランしていたそうです。その後は東洋航空という民間の航空会社工業が所有し、早稲田大学のグライダー部のために使われたりもしました」とのこと。
住人の家の裏山にも防空壕があった
また民間の東洋航空工業が飛行場として使っていた時について「昭和30年代のことですが、私の友達は飛行場でセスナ機に乗せてもらったそうです。私は足元がガラス張りのヘリコプターに乗せてもらった記憶があります」と教えてくれた地元の男性もいた。
戦時中、飛行場が海軍の管轄だったときは、軍の施設だったことで周辺住民にとっては近寄りがたい場所だったが、民間の飛行場になってからは、住民が飛行機に乗せてもらうなど、親しまれる存在となったようだ。
1944(昭和19)年の藤沢飛行場の航空写真(国土地理院より)