検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

エフヨコDJ光邦がタイムスリップ、江戸時代から150年、老舗料亭「田中家」を通して知る神奈川宿の歴史とは? 前編

ココがキニナル!

龍馬の妻おりょうさんが働いていた事で有名な老舗料亭「田中家」の歴史を通じて現在の神奈川周辺と「田中家」の店内の調査を(浜っ子さん、カレー南蛮さん、ポスポスさん、やじやじさん、ピラフランチさん)

はまれぽ調査結果!

老舗の歴史は一朝にしてならず。前編では明治期までの神奈川宿と田中家の歴史を後編は大正・昭和を経た現在の田中家や周辺の神奈川宿の面影を紹介。

  • LINE
  • はてな

ライター:ほしば あずみ

宿場町の面影を料亭に求める



1601(慶長6)年、天下の実権を握った徳川家康によって、江戸・日本橋を起点として日本各地を結ぶ五街道の整備が始まった。東海道は江戸と京都や大阪を結ぶ最も重要な街道で、横浜市域には神奈川宿と保土ケ谷宿、そして戸塚宿が置かれた。神奈川宿は品川宿、川崎宿に次ぐ3番目の宿場町で、江戸とは一日で往復できる距離にあった。
 


2000分の1スケールの神奈川宿復元模型(神奈川地区センター所蔵)

 
1858(安政5)年には日米修好通商条約締結の舞台となり、開港後は多くの寺院が各国の領事館となった神奈川宿だが、実際の開港場となり外国人居留地が置かれた横浜(現在の中区周辺)に、にぎわいは次第に移っていった。関東大震災や太平洋戦争中の空襲、戦後の都市開発によって街並みは大きく変わり、現在では宿場町の面影を探すことは難しい。
 
名残を伝える存在のひとつとしてあげられるのが、1863(文久3)年創業の料亭「田中家」である。
  


神奈川区台町に唯一残る、江戸時代から続く料亭「田中家」
 

かつては1200坪あまりの敷地を誇ったという

 
在りし日の神奈川宿の面影を、田中家の歴史と共に時空を超えてたどってほしい・・・そんなキニナル依頼のために今回は特別にナビゲーターを手配した。
 


そうだこの人がいい(はまびとインタビューVol.21より)

  
「バッコーーン!」の雄たけびでおなじみ、FMヨコハマの番組『Tresen+』のDJ光邦さん。名前も助さん格さんを従えて街道を歩いていそうだ。
  


今回はキニナルハンターとしてナビゲートしてください
 

「料亭は初めて」という光邦さんを出迎える女将の平塚あけみさん

 
今回は明治期までの神奈川宿の様子を田中家の歴史を交えてご紹介したい。



浮世絵に描かれた料亭と宿場町



田中家は、歌川広重が描いた浮世絵『東海道五十三次』に前身の茶屋「さくらや」が描かれていることで知られている。また、幕末の偉人坂本龍馬の妻、おりょうが一時期仲居をしていたことでも有名だがこれは後述。

神奈川宿は現在も神奈川区に流れる滝の川を挟んで江戸側が神奈川町、上方側が青木町に分かれていた。現在の京急「神奈川新町」のそばにかつてあった長延寺という寺の門前が、江戸寄りの宿場の入り口だったという。
 


『金川砂子(かながわすなご)』に描かれた長延寺周辺

 
『金川砂子』は1824(文政7)年に煙管亭喜荘(きせるていきそう)が描いた神奈川宿周辺(生麦~保土ケ谷の入口)の案内図絵である。

長延寺は開港時にはオランダ領事館だった歴史もあるが、国道拡張のため現在は緑区三保に移転し、その跡地は神奈川通東公園となっている(三保の長延寺横の坂道は急な坂シリーズに登場)。

田中家のある台町は上方の入り口にあたり、海に面した上り坂に茶屋がずらりと軒を並べている様子を描いたのが広重の『神奈川宿台之景』である。
 


歌川広重『神奈川宿台之景』
 

「さくらや」と書かれた茶屋が見える

 
『神奈川区誌』によると、滝の川が神奈川宿の中心で、辺りには旅籠(はたご/宿泊施設)が建ち並び、上方の入り口である台町と江戸方の入り口である新町から、かみなし川土橋の西際に茶屋が並んでいたという。その数は1855(安政2)年には旅籠57軒、茶屋が45軒というにぎわいだった。
 


復元模型でも細かく再現されている
 

約4kmの間に建ち並ぶ旅籠や茶屋(『神奈川区誌』より)
 

台町に「桜屋」がある

 
茶屋だった「さくら屋」は幕末期に高島嘉右衛門が経営する「下田屋」となり、知り合いだった晝間弥兵衛(ひるまやへえ)がそれを買いとって旅籠料理屋「田中家」としたのが、1863(文久3)年のことだった。

「『田中家』と名付けたのも高島嘉右衛門さんなんです。実業家であると共に易(占い)もおやりになったでしょう、晝間家が四方を田に囲まれた一軒家だったことに由来するのですが、田も中も左右対称なのも良いとされています」と女将。
 


初代晝間弥兵衛から5代目にあたる平塚あけみ女将
 

「田中家」の名付け親は横浜の父・高島嘉右衛門
 

田中家の玄関脇に掲げられている、開業間もないころの田中家の写真

 
上記の写真、下から2軒目の、傍らに松が沿う2階建ての建物が田中家だという。まだ鉄道も通っておらず、現在の鶴屋町や横浜駅も海の中だ。広重が描いた浮世絵とそっくりの景色である。
 


田中家に面したこの坂道がかつては
 

こんな様子だったのだろう
 

『金川砂子』による台町周辺の様子
 

現在も「田中家」のそばにある金毘羅神社や三宝寺が、ほぼ同じ位置に描かれている。
  


現在の金毘羅神社。なお、隣は酒場になるクリーニング店
 

「江戸時代って遠い昔に感じていたけど、案外身近ですね」と光邦さん
 

「よし、お参りしていくか!」
  

女将によると「神奈川宿の台は眺めが良いことで有名だったんですよ。昔は茶店の窓から釣り糸を垂らして釣りを楽しんだという話も残っています」とのこと。