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江戸時代のブランド米、「稲毛米」が今も川崎で食べられるって本当?

ココがキニナル!

鷹狩りで川崎の地を訪れた将軍徳川家光が、昼飯のご飯のうまさに感激した「稲毛米」と言えば江戸時代大変なブランド米だったとか。どんなお米だったのか気になります。(tamaさん)

はまれぽ調査結果!

現在の川崎市中原区、高津区を中心に広がっていた稲毛荘で生産された稲毛米、将軍家光が食したか定かでないが、昭和天皇は確かに召しあがった!

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ライター:岡田 幸子

稲毛荘で生産された“稲毛米”


 
「“稲毛米”って、『はまれぽ.com』もついに千葉県にエリア拡大!?」

 

 「稲毛」といえば千葉市だよね


と思ったら、川崎市で古くに作られていた米のことだという。その詳細について、まずは川崎市市民ミュージアムに問い合わせてみた。

「“稲毛米”は多摩川右岸の稲毛領(現在の幸区の一部・中原区・高津区・多摩区ほか)の地域でとれたお米の総称です」とは、川崎市市民ミュージアム学芸室博物館担当の村山翠(むらやま・みどり)さんのお話。

 

 中原区の等々力緑地内にある川崎市市民ミュージアムは
 

 地域の民俗や歴史に関わる展示も多く、古い農耕具や・・・
 

 大正まで宮内で行われた雨乞いに使った稲藁製の龍、雷、蛙、おたまじゃくしなども


「平安時代の公家・平信範(たいらののぶのり)の日記である『兵範記(へいはんき、人車記とも呼ばれる)』で1164(長寛2)年の秋巻裏文書(あきのまきうらもんじょ)にも記載がある“稲毛荘(いなげのしょう)”は、 12世紀中ごろ、現在の中原区宮内、上小田中、下小田中、井田地域を中心に成立したと思われる荘園です」

「その後の発展とともに範囲を広げ、1221(承久3)年には鎌倉幕府の領土になりました。江戸時代にかけて二ヶ領用水沿いに豊かな水田が広がり、良質なお米がとれたと言われています」

 

 平安末期から鎌倉初期にかけて稲毛荘を治めた稲毛三郎重成の居城跡が枡形山(ますがたやま)だ
 

 標高84メートルの山頂に枡形の平地が広がり
 

 展望台からは
 

 旧稲毛荘を含む360度のパノラマが望める。ここに田が広がっていたのか?
 

 ふもとの廣福寺には
 

 重成の墓もある


多摩川エコミュージアム理事の斉藤光正(さいとう・みつまさ)さんも、「今では考えられないけれど、昭和20〜30年代までは小杉あたりも田んぼだらけだったんだよ。1964(昭和39)年の第三京浜開通くらいを契機にすっかり変わったけどね・・・」とおっしゃっていた。

川崎市「農業統計」によると、1985(昭和60)年に2323世帯だった農家数は、2010(平成22)年には1257世帯までに減少。

 

 中原区の田畑は住宅などに変わり
 

 いまやこんな状態
 

 『シン・ゴジラ』が現れちゃうほど近代的な街並みに
 

 中原区井田中ノ町「はやしや米店」で聞いてみても

 

 「川崎産の米は取り扱ってません」と林大輔(はやし・だいすけ)代表取締役


JAセレサ川崎にも問い合わせてみたが、中原区、高津区で稲作を行っている登録農家はゼロとの回答。「市内の水田では麻生区の黒川地区や早野(はやの)地区に農業振興地域がありますが」とのことだった。ううむ、麻生区は“稲毛荘”ではなかったようだし・・・。

しかし、資料にあたっていると「川崎市立中原小学校」の校歌にキニナル歌詞を見つけた。その歌い出しに「米に名を得し 稲毛の里の わが中原の・・・」とあるのだ。

1762(宝暦12)年の小杉御殿周辺を描いた『宝暦十二年稲毛領小杉絵図』では・・・

 

 小杉御殿の南側に水田が広がる様子が分かる(安藤家所蔵 川崎市市民ミュージアム寄託) ※クリックして拡大
 

 1896(明治29)〜1909(明治42)年の地図でも中原村に田んぼが広がっている(今昔マップ on the webより)※
 

 1927(昭和2)〜1939(昭和14)年、JR南武線と東急東横線が開通してもまだ田は多い(今昔マップ on the webより)※
 

 1935(昭和10)年ごろの空撮写真でも田が広がっている(小野基一<おの・きいち>氏提供)※
 

 1944(昭和19)〜1954(昭和29)年、徐々に建物が増え、田が減ってきた(今昔マップ on the webより)※
 

 1956(昭和31)年ごろの空撮写真(小野基一氏提供)※
 

 1965(昭和40)〜1968(昭和43)年、斜線部は建物密集地だ(今昔マップ on the webより)※


1884(明治17)年の『神奈川県統計書』によると橘樹郡(現在の川崎市・横浜市の一部)の米類生産額は4万488石。全体の15.2%にあたり、二ヶ領用水に沿った水田地域が、県内でも主要な穀倉地であったことが分かる。(『川崎市史 通史編3』)

現在は水田など見当たらない川崎市中原区周辺だが、古来から穀倉地帯であったというのは事実らしい。


 

“稲毛米”はどんなお米だった?


 
さて、著しく発展した川崎市中原区周辺も、以前はのどかな田園風景が広がっていたことが分かった。そこで作られていた“稲毛米”とは、どんな米だったのだろう? アミガサ事件100年の会・有吉堤竣工百年の会の関崎益男(せきざき・ますお)さんに話を聞いた。

 

 シン・ゴジラと一緒にパチリ


「『川崎史話 中巻』によると、市ノ坪の幸蔵(こうぞう)という農民が伊勢参りの帰りに持ち帰った、うるち米の種子でとれた米である“幸蔵”という品種が多く栽培されていたようです」

“幸蔵”は1906(明治39)年の県農会報告にも橘樹郡内の主な品種として取り上げられており、大正のころまで盛んに作られたようだ。

 

 明治期の脱穀風景(長崎大学附属図書館提供)


「同資料には、家光将軍が鷹狩の時に賞味して気に入り、その後将軍家が食す米に指定されて毎年上納したとの記述もあります」

江戸時代初期、徳川将軍は鷹狩りと称して江戸周辺の視察に出かけた。その際には小杉に設けた御殿を利用したようだ。当地周辺で作られた米を、食べなかったと考える方が不自然だろう。

 

 ついた米は千石通しで糠を落とし、竹製漏斗で俵に詰めた(同)


当時、農民の主食は雑穀で、登戸、溝の口、小杉などの村では米1に対して麦3を混ぜたものが主流だったという。将軍家光は1649(慶安2)年に諸国郷村へ「米をみだりにたべ候はぬよう」との御触れを出した。

農民にとって米は食べるものではなく、年貢として納めるもの。残りは売って現金収入としたようだ。

 

 明治中期の稲刈り風景(同)


村々から徴収された年貢は船で多摩川を超え、浅草にあった幕府の御蔵へと納められた。村山さんによると、このことを示す史料として、幕府領であった村には関東郡代発行の、村単位に年貢を割り付けた徴税令書である年貢割附状、年貢皆済目録が残されているという。

とはいえ、「将軍家光が“稲毛米”を食べて気に入った」という内容は、実は確実な資料が残っているわけではない。質の良さで珍重され、江戸の寿司屋などでも高値で取引された“稲毛米”が、江戸幕府に上納されていた事実から、「当然、家光将軍も食べただろう」ということになったようだ。

 

 1904(明治37)年ごろ、黒牛を使って田おこしをする農民(同)


当時の高級ブランド米だったらしい“稲毛米”、ぜひとも食べてみたいものだ。