観光名所なのに廃墟!? 廃道の先「三井用水取水口」とは?
ココがキニナル!
県道515号線沿いの「三井用水取水口」。横浜市の説明板も立ち近代水道百選にも選定されてるが、一般人にはハード&危険な「観光名所なのに廃墟」な場所。復活の見込みと現状のレポートを(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
日本初の近代水道設備である「三井用水取水口」跡地は現在、廃道の土砂崩れによって辿り着くことができない。また、復活の見込みも立っていない。
ライター:細野 誠治
されば港の数多かれど、この横濱に優るあらめや
今回のキニナルを追う前に、分かりやすく、まとめを読者の皆さまに。
ここ横浜で、日本で初めて水道(近代水道)ができた話です。
横浜開港(1859<安政6>年)から、しばらく。横浜は埋立地が多く、井戸を掘っても真水ではなく、塩水や飲料に向かない水が多く湧いてしまう土地でした。人口は増え続けており、水の確保は急務です。
今では想像もつきませんが、129年前の横浜での話
「何としても水道が必要だ」
当時の神奈川県知事・沖守固(おき・もりかた)氏は1883(明治16)年、イギリス工兵中佐のヘンリー・スペンサー・パーマー氏(1838~1893)に水道の調査設計を依頼。
沖神奈川県知事(写真・左)とパーマー氏
『横浜水道創設百周年記念写真集』発行:横浜市水道局
依頼から3ヶ月後、神奈川県はパーマー氏より提出された計画書を採択。
事業計画の内容は、取水口を相模川左岸の道志川と合流する「津久井郡・三井(みい)村」として、約44km先の野毛山に建設された浄水場まで、地下に水道管(鋳鉄管)を通すというもの。
100年以上前に行われた一大プロジェクト『近代水道創設 ~横浜水道の歩み~』発行:横浜市水道局
当初、神奈川県は、多摩川からの取水を想定。しかし、パーマー氏が強く主張する相模川からの取水案に決定。費用も労力もかさむものの、水量の豊富さと、将来の人口増・使用量の増加を見越した「将来性の明るい」相模川案を選択したのでした。
配水管を布設している様子。右の写真は保土ケ谷区内で撮影されたとされる
『横濱市水道拡張記念写真集』発行:横浜市水道局
横浜に水をーー。
1885(明治18)年、工事総監督工師に就任したパーマー氏は、2年後の1887(明治20)年9月に全ての工事を完了させます。
今から129年前。ついに横浜に水道が通りました。
当時の様子と工事現場写真
『横浜水道創設百周年記念写真集』発行:横浜市水道局
日本初、近代水道の始まりの地。
現在の神奈川県相模原市、津久井湖のほとり。水が汲み上げられた場所。
そんな「三井用水取水口」が廃墟になっているという。
一体、なぜか? これが今回追うキニナルです。
実は2年前、類似するキニナルを追い、回答を得ていました。
野毛山公園内の立ち入り禁止区域にある「野毛山配水池(跡)」は、今回のキニナルである「三井用水取水口」から運ばれてきた水を市内へと分配する前に一旦、貯めておくための貯水施設。
横浜市水道局は、なぜ「水道遺産」を“閉鎖したまま”にしているのか?
理由は「予算内において、まずはライフラインの拡充。また震災などに強い水道管への移行を最優先としているため。よって水道遺産は、現状を維持」とのこと。
今回の「三井用水取水口」も「野毛山配水池」と同様の理由で閉鎖・現状を維持している状態なのだ。
運用当時の野毛山配水池(左)と、給水エリアにあたる西区。野毛山頂からの眺め(右)
(左:『横浜水道創設百周年記念写真集』
『横濱市水道拡張記念写真集』発行:横浜市水道局)
現在、野毛山公園には日本初の近代水道創設を讃える説明板が
現在の野毛山配水池跡。門が固く閉ざされている
観光名所として「復活の見込み」は、説明の通り。まったくの白紙状態。
では現状は、かつて水を汲み上げていた「三井用水取水口跡」はどうなっているのか?
野毛山から北西へ約44km。相模原市に位置する水源地、津久井湖へ。
129年後の真実を見に行きます。