山手の歴史ある「横浜ユニオン教会」に教会初の日本人牧師がいるって本当?
ココがキニナル!
1863年創立の横浜ユニオン教会を取材して下さい。英語で説教する教会ですが、現牧師の斎藤氏は教会初の日本人牧師で、着任以来、最長在任期間を記録。戦争で破壊された教会堂を再建した立役者です(ヨハンさん)
はまれぽ調査結果!
横浜ユニオン教会は関東大震災や横浜大空襲を経験し、今日まで存続してきたプロテスタントの教会。斎藤顕牧師は同教会で初めての日本人牧師で、この5月にアメリカに帰るとのこと
ライター:松崎 辰彦
歴史ある横浜ユニオン教会
横浜市中区山手。みなとみらい線元町・中華街駅から坂を上った高級住宅街にあるのが投稿にあった横浜ユニオン教会である。
投稿によると、歴史あるこの教会の現牧師は、過去すべて外国人牧師だった中で初めての日本人であり、なおかつ最長在任期間を記録しているとのこと。それなりに個性的な人物なのであろうか。横浜ユニオン教会の歴史を振り返りながら、その人柄に迫ることにする。
元町・中華街駅から徒歩10分ほど
山手にある横浜ユニオン教会
英語で表記されている横浜ユニオン教会(Yokohama Union Church)の掲示
最初に横浜ユニオン教会の歴史を紐解くことにしよう。
現在、山手の道沿いにひっそりとたたずむ横浜ユニオン教会が産声をあげたのは、開港間もない横浜に私的な礼拝を行う一群の外国人がいたことがきっかけだった。
横浜が開港した4年後の1863(文久3)年、日本を訪れた最初のプロテスタント宣教師たちの働きにより、S.R.ブラウン師を仮牧師として外国人たちは横浜のアメリカ領事館内で礼拝を行っていた。彼らはその後、宣教師のJ.H.バラが横浜在住の外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場として、1868(明治元)年に中区日本大通に建てた“聖なる犬小屋”と呼ばれる小会堂に集い、敬虔(けいけん)な信仰を維持した。
1872(明治5)年、バラに英語を教わっていた日本の青年たちがキリスト教に触発されたことがきっかけとなり、横浜海岸教会が誕生。それと同時に外国人たちは、英語を話す超教派(教派を超えて活動すること)のグループとして、この小会堂を離れ、外国人の多く住む山手のブラフに建物を借りて礼拝を続けた。
そんな彼らはやがて1910(明治43)年に、本拠地として山手に教会堂を設立する。これが横浜ユニオン教会が、この地にできた経緯である。
建設当初の横浜ユニオン教会。当時は今より大きな建物だった
1923(大正12)年、教会堂は関東大震災で崩壊。その後、一度は再建されるも1945(昭和20)年の横浜大空襲でまたもや焼失した。
関東大震災で崩壊した横浜ユニオン教会の様子
1927(昭和2)年に再建された、2度目にできた建物
横浜大空襲で焼失した後は、教会堂が建て直されることなく、教会の会員たちは現在の横浜ベイスターズの球場にあった米軍のチャペルセンターで礼拝を続けた。そして、2003(平成5)年に現在の教会堂が完成した。
空襲から50年たっても教会跡は廃墟のままだった
教会堂が建設されるまで礼拝が行われていた近くの家
このように震災、戦災の2度にわたる災禍を受けた横浜ユニオン教会だが、現在は新たな教会堂の下、多くの会員が集っている。
今回ご登場願うのがこの教会堂再建事業を遂行した斎藤顕(さいとう・けん)牧師。これまでの同教会の牧師の中で唯一の日本人というユニークな存在である。
この歴史あるプロテスタント教会の門をくぐり、お話を伺うとしよう。
礼拝は英語で行われる
今回は、毎週日曜日に行われている礼拝に参加させていただいた。
さほど広くない礼拝堂に20人ばかりの男女が集まっている。その多くが外国人。
親子やカップルが多く、皆親しげに言葉を交わしている。礼拝堂内は思ったよりも明るく、窓から日光が射し込んでいた。
礼拝堂の中
礼拝が始まった。
司会の外国人男性が祈りの言葉を述べ、参加者が応じるように言葉を唱和する。さらに司会が声を出し、祈りを続ける。
ときに賛美歌を歌唱する。歌唱する際は、全員が椅子から立ち上がって歌集を手にし、英語の歌詞を歌う。
賛美歌のみならずすべて英語で行われ、あらかじめ渡されている進行表に沿って礼拝が進められていく。日本語が使われないので少々戸惑いつつも、司会や参加者の祈りの言葉に耳を凝らす。
Material(マテリアル)とspiritual(スピリチュアル)
およそ30分がたち、時刻が午前11時ごろになったあたりで、説教が始まった。斎藤牧師が前に立つ。この日行われたのは旧約聖書創世記25章の解説だった。
その内容はイサク(ユダヤ人の祖アブラハムの息子)の息子、兄エサウと弟ヤコブの物語。外から帰って来たエサウがヤコブに食物を要求する。ヤコブはその代償に長子(長男)の権利を要求する。エサウはヤコブの希望通り長子の権利を譲ってしまう。
この物語について、斎藤牧師が説明する。
「ここではmaterial(物質的)とspiritual(霊的)が比較されています。エサウは自分にとってすぐに利益になる食物を要求した。一方でヤコブは今すぐではなくても将来的に利益になる長子の権利を得ようとした。食物がmaterialで長子の権利がspiritualと考えると、興味深い比較対照になります」
思いがけぬ視点に感心する。何十年と聖書を読み込んできた人物ならではの洞察であろう。
斎藤牧師
日本語も混じるが、大半は英語である。語学力ももちろん必要だが、聖書内容の一定程度の知識も聞き手に要求される。
終わると再び司会の男性が現れ、賛美歌を全員で歌うなどして終了。
1時間半ほどの礼拝だが、これはプロテスタント教会としてはごく一般的な内容とのこと。
新たな教会堂を建造した斎藤牧師
正午に礼拝終了。礼拝堂を出た会員の方たちは、廊下で思い思いに交流を楽しんだ。礼拝中の緊張から一転して、温かい和やかな空気が漂う。
そうした中で斎藤牧師にインタビューを行う。ご自身とこの教会との関わりについて、お話を伺った。
「私は今年の5月にアメリカに帰ります。行く、じゃなくて帰るんです」と斎藤牧師はいう。
アメリカに“帰る” とは?
2019年の5月には日本を離れる
「私の本拠地はアメリカです。私の属する『米国長老教会(長い歴史を持つプロテスタントの一派)』は70歳定年制で、私もこの7月に70歳になり牧師を引退しますが、それに先立って5月にアメリカに帰り、生活するつもりです」
斎藤牧師が着任されたのが1996年(平成8年)。それから23年の歳月が経とうとしている。これは歴代の横浜ユニオン教会の牧師の中で最長とのこと。
そうした斎藤牧師にとって、2003(平成15)年に新たな教会堂を建立したことは特に大きな出来事だった。そこには難しく入り組んだ事情があった。
「この教会堂の土地はもともと教会の所有だったことは間違いないのですが、空襲で役所の書類が焼失し、そのことを証明するものがなくなりました。そうするうちにまるで関係ない第三者が入り込んで『ここは自分たちの土地だ』と主張して教会を排除するような動きを見せたのです。それに対抗するために教会側は弁護士を雇って訴訟を起こし、勝訴しましたが、教会堂を建てるために貯めていたお金は弁護士費用として消えてしまいました。これが私が着任する3年前のことです」と土地の権利に関わる事件の顛末を話してくれた。
教会創建当時からあるという3本のスダジイの木
空襲で焼けて以来、教会員たちは隣接する家屋(焼失した教会の牧師館)の1階で礼拝を行っていたが、“アメリカの田舎の教会をイメージした”という新教会堂完成以後は、この聖なる空間で礼拝が行えるようになった。
大きなガラス窓には、十字架が輝いている