かつて観音崎公園にあった日露戦争で活躍した「28サンチ榴弾砲」とは?
ココがキニナル!
横須賀の観音崎公園に「28サンチ榴弾砲」の模型がありました。当時、軍艦の襲撃から守るために設置されたようで、対岸の千葉まで届くほどの飛距離だったそうです。どんな歴史か気になる(massuruさん)
はまれぽ調査結果!
28サンチ榴弾砲は日露戦争で日本軍がロシア軍を倒したときに使われた大砲。もともと東京湾の護岸砲として海岸に据え付けられたが、その後満州に運ばれた。観音崎公園に展示されていたのはレプリカ
ライター:松崎 辰彦
28サンチ榴弾砲(りゅうだんほう)――
歴史好き、とくに明治の日露戦争周辺の時代に惹かれる人々にはこの大砲の名前にピンとくるものがあるかもしれない。
当時、中国大陸の旅順(りょじゅん。現在の中華人民共和国遼寧省大連市)に大軍で駐留しているロシア軍に苦戦した日本軍は、日本国内から28サンチ榴弾砲を運び、戦場で使用して、ロシア軍を撃破した。
まさに起死回生の武器であった。
28サンチ榴弾砲の模型
天に咆哮(ほうこう)する獅子のような形の重量感あふれる大砲である。明治の日本陸軍を象徴する武器と言えよう。
日本に勝利をもたらした28サンチ榴弾砲。
その歴史を見てみよう。
横須賀に大砲を設置した
1853(嘉永6)年にペリー提督率いるアメリカの艦隊が江戸湾に侵入、日本に開国を要求する。彼らは久里浜から上陸し、大統領の親書を日本側に手渡した。
この日から日本は激動の世界情勢に巻き込まれることとなった。
ペリー提督
1868(明治元)年の明治維新を経て誕生した新政府は国土防衛を期(き)し、首都東京に来襲するであろう敵国艦隊を駆逐するべく、東京湾を囲んだ神奈川県横須賀市と千葉県富津市を中心に多くの砲台ならびに海堡(かいほう)を建設した。
陸軍によって構築されたこれらの防衛ラインは「東京湾要塞」と呼ばれ、その最初の建造は1880(明治13)年5月、横須賀市観音崎であった(このあたりの経緯に関しては過去に調査した『東京湾要塞の要』、横須賀・観音崎にある砲台跡の歴史は?に詳しく述べられている)。
1899(明治32)年の東京湾要塞地帯(『新横須賀市史 別編軍事』より)
本編の主人公、28サンチ榴弾砲もそうした計画の流れの中で誕生し、やがては日本を救う救世主となった。
28サンチ榴弾砲とは
28サンチ榴弾砲とは1883(明治16)年、大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)がイタリアの榴弾砲(大砲の一種。砲弾が高射角で発射され、遮蔽物を超えて上方から落下して標的を破壊する)を参考に開発したものである。
その名の通り口径28cm(「サンチ」はフランス語で「センチ」のこと)、最大射程距離7800メートル。観音崎と千葉県の距離は約10kmなので、投稿にある「千葉まで届くほどの距離」はやや誇張であるが、当時としては強力な火砲であった。
国土防衛に作られたこの武器は全部で200門以上製造され、そのうちの4門が1886(明治19)年に東京湾観音崎第三砲台に設置された。
今も残る観音崎の第三砲台跡
日露戦争で活躍
28サンチ榴弾砲が日本の戦史に残った大きな理由は日露戦争で活用され、敵の要塞があった中国大陸の旅順ならびに、日露戦争の激戦地だった奉天(ほうてん。現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)のロシア軍を撃破した事実による。
1904(明治37)年に日本とロシアとの間で満州・朝鮮の制覇をめぐって勃発した日露戦争の中で、乃木希典(のぎ・まれすけ)率いる第三軍は、ロシアが極東侵攻の拠点としていた旅順を攻めあぐねて多くの戦死者を出した。しかし、やむなく乃木に代わって指揮を執った児玉源太郎は28サンチ榴弾砲を投入することでロシア軍を降伏させ、203高地(旅順の激戦地)占領に成功した。元来コンクリートで地面に固定された28サンチ榴弾砲であったが、輸送するにあたり土台を壊して運んだという。
その後は奉天の闘いでも活用され、日本軍を勝利に導いた。
日露戦争で使用された28サンチ榴弾砲(フリー画像より)
28サンチ榴弾砲は日露戦争勝利の影の立役者となった。そしてそれが現在の観音崎公園にあるという情報が今回の投稿である。
観音崎公園にある?
横須賀市にある観音崎公園。70.4ヘクタール(70万4000平方メートル)の大地に緑が萌え、海岸から広大な海が広がっている。
その一角に28サンチ榴弾砲があるとのこと。
それではと京急線浦賀駅から観音崎公園まで赴き、周囲を調べた。
浦賀駅からバスで15分ほど
観音崎公園
しかし・・・ここにあるはずというその場所を見てもただ草花が生えているだけ。どうしたのだろう?
ここに28サンチ榴弾砲があるはず?
すでに撤去された28サンチ榴弾砲
「こちらにあった28サンチ榴弾砲はすでに撤去しました」
こう教えてくれたのは観音崎公園元副所長の砂川正夫(すながわ・まさお)さん。退職された現在も、観音崎公園にはボランティアとして定期的に訪れ、さまざまな活動をしている。
砂川さん
「ここにあったのは本物ではなくて、私たちのボランティアグループ『わかばの会』が制作した模型です。鉄ではなく木製でした」
観音崎公園ににあったのは本物ではなく模型だったとのこと。ボランティアの方たちが精根こめて作り上げ、ここに展示していたとくわしい説明をいただいた。
話を聞いてみると、このプロジェクトの発端は半ば“酒の勢い”的な部分があったようである。
「うちの公園でボランティアをやるフィールドレンジャーという人たちがいるんですが、もう何年も前にその人たちと飲んでいたところ、『今度NHKで〈坂の上の雲〉をやるよ』という話がでたんです。そうか、それならばそこに登場する、日本軍に勝利をもたらした28サンチ榴弾砲をみんなで作ろうじゃないかということになり、盛り上がりました」と回想する。
「インターネットなどで28サンチ榴弾砲がどのようなものであったかを調べました。材料は木材とペットボトルのフタで、かかった総費用は7万5000円です」
酒席の話が現実となり、2009(平成21)年10月24日に「28サンチ榴弾砲を作る会」が発足。砂川副所長を中心に有志十数名が集まった。
集まったメンバーの中には専門の大工さんはおらず、全員が木工仕事の素人だったが、しかし情熱に満ちた男たちは創意工夫して1ヶ月のうちにこの大砲のレプリカを完成させてしまった。
28サンチ榴弾砲製作中(画像提供:観音崎公園)
板で作っていく(画像提供:観音崎公園)
ペットボトルのキャップも使用(画像提供:観音崎公園)
色を塗り、重厚に仕上がった(画像提供:観音崎公園)
制作に携わった方々(画像提供:観音崎公園)
同年11月29日に除幕式が挙行される。その後にメディアの取材もあった。
TV取材の様子(画像提供:観音崎公園)
このお手製の28サンチ榴弾砲は来園社の注目を集めたが、木製ゆえに風雪の傷み抗(こう)しがたく、2015(平成27)年3月14日解体。当日は「解体式」まで挙行してこの日本を守った武器のモデルを天に返した。
解体式当日(画像提供:観音崎公園)
解体の様子(画像提供:観音崎公園)
砲塔を取り外し(画像提供:観音崎公園)
壊すのも大仕事(画像提供:観音崎公園)
現在、その場所には前述のように草花が生えている。
28サンチ榴弾砲がロシアを敗った
もともとは海岸砲として陸上から海に浮かぶ敵艦を攻撃するために作られた28サンチ榴弾砲だが、日露戦争では旅順と奉天での戦いに転用された(固定してある基礎から火砲を引きはがし、移動させて別の戦場で使用した例は歴史上他に見られないという)。
台座のコンクリートをはがして船で中国大陸まで輸送し、そして戦場まで運ぶという大変な労力をかけて据えられたが、その威力は絶大だった。
戦場で使用された28サンチ榴弾砲(フリー画像より)
日本から送った28サンチ榴弾砲は全部で18門。小説『坂の上の雲』に観音崎からも送られている記述がある。
かくして観音崎公園の28サンチ榴弾砲は模型であったが、現在実物は存在しているだろうか?
調査の過程で取材中にいろいろな話を伺ったが、そこに一つの情報を入手することができた。
それによると28サンチ榴弾砲の砲弾が、とある場所に恒久展示されるというのである。
その場所は・・・藤沢市江ノ島の児玉神社である。