根岸駅近くにある根岸飛行場跡について詳しく教えて!
ココがキニナル!
根岸駅の近くにある交差点「プールセンター入口 交差点」に根岸飛行場跡の看板があります。看板にも説明がありますが、もっと詳しく知りたいですお願いします。(はまっぷさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
根岸飛行場は日本初の飛行艇専用民間飛行場であり、南洋航路定期便が運航していた。戦争が激しくなった頃には特攻隊員の移送もされていたという。
ライター:橘 アリー
根岸飛行場の完成
その後、海洋部による南洋定期航空の計画が形を成すと、定期航空の円滑な運営を行うために、横浜支所を移転拡充することとなった。当初は東京や京浜地区が第一候補地だったようだが、気象や地理的な条件が合わなかったため、波静かで近くに飛行艇専用部隊の横浜海軍飛行隊がある根岸に決定した。
上空から撮影された根岸飛行場の様子(葛城さんの資料より)
構内配置の復元図(葛城さんの資料より)
根岸飛行場は1940(昭和15)年に完成。広さは約2万坪あったそうだ。同年3月、根岸からの第一便となる、横浜―サイパン―パラオ間の旅客輸送が開始された。
横浜支所は翌年の4月に富岡より根岸に移転し民間における唯一の飛行艇基地として業務を開始した。
当時の新聞にも根岸飛行場から飛行艇が飛んだ様子が書かれている。
1940(昭和15)年3月12日の横濱貿易新報(現在の神奈川新聞)の記事
磯子区役所発行の『浜・海・道 Ⅱ』に根岸飛行場の当時の様子が書かれていた。それによると、空港には東洋一を誇ったスマートで巨大な格納庫があり、大きな九七式飛行艇が12機も格納できたという。空港ターミナルビルは近代的で1階には待合室や食堂、2階には通信室や所長室、屋上は総ガラス張りで冷暖房完備の、今でいう管制室があったそうだ。
根岸飛行場のターミナルビル玄関前で撮られた写真1942(昭和17)年元旦
(葛城さんの資料より)
南洋定期航空は、民間企業が南洋開発事業のために活発に利用したり、急病人を南洋諸島から内地の病院へ移送したりと、開始早々から忙しい運航となったそうだ。
大日本航空 海洋部 航空路線図(昭和16年~20年)
しかし、戦争への雰囲気が次第に重苦しくたちこめるようになった頃、大日本航空は全社で陸海空軍の作戦に協力し、輸送機部隊を各方面に派遣するなどの後方支援連絡輸送機関としての責務を果たしたとある。
最終的にはスペイン領のチモール島(現インドネシア共和国)までの国際航路も開設されたが、太平洋戦争のために短い期間で終わってしまったそうだ。
1945(昭和20)年8月のポツダム宣言受諾により終戦を迎え、大日本航空は解散。根岸飛行場も米軍に接収され、残っていた飛行艇も破棄された。