根岸駅近くにある根岸飛行場跡について詳しく教えて!
ココがキニナル!
根岸駅の近くにある交差点「プールセンター入口 交差点」に根岸飛行場跡の看板があります。看板にも説明がありますが、もっと詳しく知りたいですお願いします。(はまっぷさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
根岸飛行場は日本初の飛行艇専用民間飛行場であり、南洋航路定期便が運航していた。戦争が激しくなった頃には特攻隊員の移送もされていたという。
ライター:橘 アリー
特攻隊員の移動も行っていた
以前はまれぽで調査した「富岡総合公園には以前どんな施設があったの?」でも横浜海軍航空隊や飛行艇について教えていただいた、葛城さんに当時の様子を聞いた。
葛城さんによると、根岸飛行場があった当時、根岸湾一帯の子どもたちにとって九七式大型飛行艇は自慢のタネで、パイロットは憧れの存在だったそうだ。
大日本航空の大格納庫と九七式飛行艇の前での大日本航空社員の記念撮影
1945(昭和20)年元旦(葛城さんの資料より)
しかし、飛行艇が着水に向かう時、岡村や滝頭の民家の屋根すれすれに40mもの翼を広げて舞い降りる轟音はすさまじいものであったそうだ。
根岸飛行場で使われていた飛行艇は、九七式飛行艇というもので、川西航空機が開発・製造した全長24.9m・全幅40m、主翼に1070馬力の発動機を4基搭載しているものだった。
最大速度は時速340kmだが、巡航の際は、新幹線とほぼ同じスピードの時速260kmほどで飛んでいたようだ。
九七式飛行艇の構造図(葛城さん資料より)
旅客定員は18人で、冷暖房完備、床はカーペット張りで、長時間の飛行に備えて寝台も用意されていたという。ちなみに運賃は、横浜―パラオ間の片道が365円だったようだ。大卒銀行員の初任給が70円、ラーメン一杯が16 銭だった時代だ。
根岸飛行場から飛び立つ飛行艇は子どもたちも憧れるロマンに満ちたものであったが、太平洋戦争が始まるころには軍の偵察目的のために飛んだり、戦争が激しくなってくると特攻隊員を乗せて移動することもあったそうだ。
当時の大日本航空株式会社の社員で飛行艇操縦士だった、武宮清秀さんの航空機搭乗員手帳を葛城さんが見せてくれた。そこには赤色鉛筆で「特攻隊移動」と記されている。
航空機搭乗員手帳
大湊・串本・指宿・鹿児島などへ移送したと記されている
葛城さんは、同じ磯子区在住の武宮さんと親交があり、武宮さんが亡くなられたあとにご遺族から資料の保管を任されたそうだ。
飛行艇に乗っていた時に被っていた帽子
武宮清秀さんのパスポート
取材を終えて
武宮さんの航空機搭乗員手帳の表紙の裏に、武宮さん直筆の「伝ヘヨ。子孫ニ。」という言葉があった。
航空機搭乗員手帳の表紙の裏に書かれた文字
根岸飛行場には、当時の人たちの憧れだったという南洋航路を運航したという現実もあれば、戦争時の特攻隊員を移送したという悲しい現実もあるとわかった。
武宮さんの「子孫へ伝えたい」という思いが、とても印象に残った。
― 終わり ―
た~坊さん
2017年02月14日 18時42分
武宮清秀の孫です!祖父を誇りに思います!ちなみに祖父は操縦士ではなく機関士です!写真に「いうこと機関士」wと赤鉛筆で書き添えられているのを目にしたことがありますよ(^_^;)きっと頑固だったり、曲がった事が嫌いだったのではないかと思います。親父が若い頃に亡くなり、会ったことはありませんが、親父も私も車が好きであり、エンジン好きは遺伝するのかな?!とも思っております。
ちみをさん
2015年06月02日 14時24分
いぜん七福神めぐりで知ったと思います。戦争とかかわりがあると思っていましたが氷解いたしました。ズーットズーット残していただきたいです、磯子の歴史遺産?です。
BANDO_ALFAさん
2012年09月30日 18時13分
南海の花束、DVD出てたんですねー。探してみよう。