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帷子川の源流までってどうなってるの?

ココがキニナル!

横浜市内を流れる主な川の源流(水源地)を巡る旅、というのはいかがでしょうか(吉閥さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

帷子川源流のある旭区若葉台にたどり着くまでに、戦前の横浜を代表する大工場地帯跡や自然豊かな情景、歴史的スポットを通過する。

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ライター:ナリタノゾミ

かつてはカッパも生息していた?



和田町から旭区西川島町の分水路まで進んでみよう。
 


和田町駅から西川島町の分水路まで


開発が進む以前は、清らかな水が流れることで親しまれていた帷子川。江戸時代にはカッパが親子で住んでいたという民話さえある。

一時は流域の開発により汚染された帷子川だが、現在では水底が見えるほどの透明感を保ち、さまざまな生物のよりどころとなっている。
 


徐々に緑が濃くなる流域。カッパも住めそうな水質を保つ。正面を横切るのは横浜新道の高架


陣ケ下渓谷公園を左手に見ながら川をさかのぼると、立派なカメラを携え、帷子川ウォッチングをしている男性を発見した。
 


近隣に住む山中さん(仮名)。一体、何を撮っているのだろう
 


近所の住民も、帷子川を静かにのぞきこんでいる。まさか、カッパでも発見したのか?


視線の先をよく見ると、カルガモの親子の姿が!

山中さんによると、「2組の親子が住んでいるんだよ。先週までは、手のひらに乗るくらいの雛だった」とのこと。カルガモ親子の様子を、大きな声を出さずに見守っていた。
 


微笑ましい、カルガモの子育てシーン。この日は泳ぎのレッスン中だった


カルガモ親子と山中さんに別れを告げて先に進むと、西谷町を過ぎたあたりで、いよいよ旭区に突入する。
 


西谷沿岸の帷子川。かつては捺染(なっせん)工場が多く見られたという
 


河川敷を利用して作られた公園、田原橋公園(旭区西川島町86)。
水辺の生き物をのぞきこむ子どもたち


かつては氾濫を繰り返していた「暴れ川」は、流域の住人のみならず、生物にも甚大な被害をもたらしていたのだろう。

1997(平成9)年に完成した帷子川分水路は、保土ケ谷区の流域や、横浜駅周辺の浸水被害を軽減させ、水辺を穏やかに保っている。
 


分水路の長さは約7.5キロメートル。
白根1丁目から始まり、神奈川区大野町で帷子川に接続する


分水路ができたおかげで、大量の水が押し流される危険がなくなるので、カルガモの親子も安心して子育てに集中できているのだろう。
 


随所に川魚がのぼれるような設備が施されている



流域の歴史を歩く



さて、鶴ヶ峰から万騎が原にかけての一帯が古戦場であったことは、はま旅Vol.111「南万騎が原」でも取り上げた。旭区鶴ヶ峰から上川井町までを歴史散策してみよう。
 


鶴ヶ峰から上川井町まで


鶴ヶ峰商店街沿いにて、河川改修前の帷子川に架かっていた橋の跡地を発見することができる。

かつては、「鎧橋」と呼ばれていたが、その名前の由来には、この土地で果てた武将・畠山重忠の活躍した時代背景が深くかかわっているらしい。
 


鎧橋は2003(平成15)年の道路改修工事により撤去されたという


さらに、鶴ヶ峰商店街周辺には、畠山重忠終焉の地や、首塚などの史跡が散見される。過去の記事も参照しながら、周辺を歴史散策するのも面白い。
 


帷子川沿いに
畠山重忠公終焉の地を発見。畠山重忠公の石碑とさかさ矢竹

 


ちなみに旭区役所裏には、畠山重忠の首が祀られているといわれる、首塚がある


ところで、畠山重忠が活躍した鎌倉時代から時を経ること、江戸時代。都岡町にある橋を、徳川家康が渡ったというエピソードが残されている。中原海道の一部である御殿橋が、その橋だ。

家康は、江戸入城の際に同橋を渡って以来、鷹狩りや民情視察などで、よく利用したのだとか。橋の名称も家康にちなんでつけられたのだという。
 


御殿橋(都岡町)を家康が何度も渡った!?


多くの歴史的人物の栄枯盛衰を見届けてきたであろう帷子川。そんな川の源流も、大貫までやってくると、いよいよだ。皆様にはもうしばらくお付き合いいただきたい。