横浜市営地下鉄関内駅に2番線と4番線しかないのはなぜ?
ココがキニナル!
横浜市営地下鉄関内駅は上りが地下3階、下りが地下2階の二層構造で、1番線と3番線がありません。ホームが横にならべられない理由は?使われていない謎のホームは何?(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
開通当初関内~山下町方面へ延伸計画を見込み「三層島式ホーム形式」を採用、計4つのホームを作ったが計画の廃止により不要な1番線と3番線が残った
ライター:三浜 詩央
「頓挫」ではなく「廃止」となった、かつての延伸計画
(つづき)
さらに計画は詳細化され、4つのルートに(Googleマップより)
続いて検討された「横浜を中心とする旅客輸送力の整備増強計画試案」では、神奈川新町付近で地下鉄と京浜急行線と連絡させる、などより綿密な計画となり、原案よりも施工予定範囲が広まって4つのルートに。
4つのルート、とは図の
紫・・・(六会付近~関内間):1号線
ピンク・・・(屏風ケ浦~神奈川新町間):2号線線
緑・・・(本牧~勝田間):3号線
黄色・・・(鶴見~元石川間):4号線
のこと。
起終点と主な経過地(『横浜市高速鉄道建設史』より)
地下鉄関内駅が地下3階まであり、上り線と下り線の二層構造のホームになった経緯に大きく関わるのは、同案のなかで「1号線」と「3号線」に位置づけられたこの2つのルートだ。
1号線(紫色)と3号線(緑)が、ちょうど関内付近で交わっている(Googleマップより)
1966(昭和41)年には同案も滞りなく可決。
計画を実現させていくにあたって、1970(昭和45)年までの建設計画路線、緊急整備路線として早急に準備が進められたのが、1号線の一部区間、港町~上大岡、3号線の一部区間、北幸町(横浜)~山下町間であった。
赤い部分が緊急整備路線の区間(Googleマップより)
優先的に整備する区間のちょうど分岐点となった関内周辺。関内駅がちょうど1号線と3号線の直通する駅、ということになる。そこで、乗客が戸塚方面(1号線)および横浜方面(3号線)をそれぞれ同一階の同一ホームで乗り換えができるよう、両側が線路に接している「三層島式ホーム形式」を採ったのである。これこそ地下鉄関内駅が不思議な構造をしている理由だったのだ。
計画が順調に進んでいれば、4本の路線が今もフルに稼働していたはず。しかし、計画段階では順調に進んでいた高速鉄道建設事業に、実行に移す段階で大きな障害が立ちはだかる。
1975(昭和50)年、高速鉄道建設の計画を受けて、「港湾労組協議会」「横浜船主会」などの港湾業界から着工延期の要請があった。その内容は、当時はまだベイブリッジもなく、ちょうどコンテナの通り道として使われていた関内周辺が工事に着手してしまうと、交通渋滞がいっそう激しくなり港湾からの貨物輸送に大きな影響をもたらす、というもの。
高速道路も整備されておらず、唯一のコンテナ街道だった(Googleマップより)
それを受けて、1989(平成元)年まで計画を延期、ベイブリッジおよび首都高速道路横羽線山下インターの完成までしばし待つこととなる。
翌年の1976年には、地下鉄関内駅が開業。2ホーム4線路の稼働を想定しながらも、1号線・3号線の開通を待つ形での開業となった。
開業当時、列車搬入時の様子(資料提供:横浜市交通局)
計画再開を待つ間、同じく「六大事業」のひとつである(1)都心部強化事業が、横浜市の中心的なプロジェクト「みなとみらい21計画」として急速に進んでいた。同計画の一環として持ち上がった「みなとみらい線」の構想は、幾度も微調整を重ねながらも着工に至っていなかった高速鉄道3号線・関内~山下町間とほぼ並行して走行するルートであった。
みなとみらい線及び地下鉄3号線概略路線図(『横浜市高速鉄道建設史』より)
結局「みなとみらい21計画」を優先し、3号線開通の廃止が決定、緊急整備路線であった1号線も同時に開通しない、という結論に至ったという。