かつて綱島は温泉町として有名だったって本当!?
ココがキニナル!
綱島が昔温泉地だったという証拠が知りたいです(380さん)/昔、東横線の綱島駅前は温泉街として有名で、温泉旅館がひしめきあっていたそうです。その当時のことがすごく気になります(ねこぼくさん)
はまれぽ調査結果!
綱島駅は戦前まで綱島温泉駅であり、多くの温泉宿、芸者がひしめいていた。温泉が湧き出た記念碑が、綱島街道沿いにある。
ライター:松崎 辰彦
赤水を分析したらラジウムが発見された
綱島でははるか昔より地面から「赤水(あかみず)」が出ることが知られていたが、その効能が注目されたのは明治末、あるいは大正に入ってからのことである。
綱島駅から綱島街道を歩き、大綱橋を渡り切ってほどなくのところに「ラヂウム霊泉湧出記念碑」と表面に刻まれた碑がある。
綱島街道沿いにある「ラヂウム霊泉湧出記念碑」
裏にまわれば「昭和八年三月建之」とあるほか、細かい文言がいくつも彫られており、この事業に多くの人が関わっていたことがわかる。
碑の裏 さまざまな文言が刻まれている
碑の裏の文言(平井誠二『わがまち港北』〈『わがまち港北』出版グループ〉より)
注目すべきは「発見者 飯田助太夫(いいだすけだゆう)」そして「発見所有者 加藤順三」となっていること。発見者はともかく、発見所有者とはなんであろうか。
ここにある飯田助太夫とは、正確には飯田助大夫快三(いいだすけだゆうかいぞう)といい、『横浜の趣きある茅葺き屋根の古民家がある場所を教えて!』にご登場いただいた飯田助知(すけとも)さんの曽祖父に当たる人物である。
村長、県会議員などを務めた政治家だったが、金銭に清廉(せいれん)で橘樹(たちばな)郡大綱村の村長時代は一切の手当てを受け取らず、かといえば知事が来ても「忙しいから」と送迎を断るなど、発想に常識を超えた部分のある人物であった。
飯田助知さんとご自宅
飯田家と温泉のかかわりについて、助知さんはいう。
「明治末から大正の初めにかけて、ここ(庭)の一角で試掘(しくつ)をしたという話は聞いています。赤い水が出てきて、それを専門家に分析させたということです。ただしそれが、付近で赤い水が出るということが知られるようになってからなのか、その前なのかはわかりません。多分、相前後してということでしょう」
東横線と温泉の関係についても、教えてくれた。
「東急は1926(大正15)年に東急東横線を開通させますが、そのときここに綱島温泉駅を作りました」
1927(昭和2)年、東京横浜電鉄(東急の前身の一つ)は綱島温泉駅前に綱島温泉浴場を総建設費3万8000円(現在の約2億3000万円)で建設した。駅の周りと大綱橋、そして綱島街道の旧道にかけて、にぎやかな温泉街になったという。
綱島に芸者がいたころの絵葉書(画像提供:飯田正己)
「当時大綱村村長だった祖父助夫は東急の用地買収に協力してもいます。地主は100人以上いたのですが、2日で(売却の)話をまとめたといっていました。祖父の性格や考え方から想像すると、おそらく担当者(五島慶太)に、地主も将来重要なお得意さんになるのだから、むしろ高く買いなさいといったのだと思います。それまでの折衝の過程で二人の間にすでに信頼関係ができていたともいえます」
飯田助夫氏
1944(昭和19)年、軍部により「この戦時に綱島“温泉”などというふやけた名称とは何事か!」といういかにも当時の軍国主義的な発想から駅名を綱島温泉駅から綱島駅と改称される。しかし戦後も東京の奥座敷として多くの人を迎えた。
1964(昭和39)年の東海道新幹線の開通で、箱根や熱海へのアクセスが容易になり、徐々に綱島の吸引力が低下し、折からの住宅需要の急増やレジャーの多様化などもこれに拍車をかけた。飯田さんによると、1975(昭和50)年ころから人気の拡散が顕著になったという。
こうして温泉街としての綱島は衰退の道をたどった。