検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

京急仲木戸駅高架下に露出したレンガ積みの壁はいったい何?

ココがキニナル!

仲木戸駅近くの高架下に、レンガ積みの壁が露出している部分があります。あえて残しているとしたら、いったい何?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

かつて東神奈川駅から分岐した現在の横浜線の貨物専用線路が京急の下で交差した廃線跡だった。現状は運行に問題がないので当時の様子を留めている

  • LINE
  • はてな

ライター:永田 ミナミ

歴史の扉を開く

さて、高架下(3)の違和感が開く過去の歴史ヘと繋がる扉とは、過去の記事でもすでに触れられていることなのだが、京浜電気鉄道(現京浜急行電鉄)と横浜鉄道(現JR横浜線)との関係による。

仲木戸駅が京浜電気鉄道の中木戸停留場として開業したのは1905(明治38)年12月24日。

その後、時期は不詳だが一説によると1915(大正4)〜22(大正11)年の間に仲木戸停留場に改称したというが、以前、南区六ツ川にあったという温泉について調べた時に参照した1931(昭和6)年発行の「模範大横浜市全図」では、表記はまだ「中木戸」だった。
現在のような情報のない時代、改称は徐々に普及していったのだろう。

一方、当時の主力輸出品であった生糸を扱う商人たちによる、輸送路確保のための5度に渡る粘り強い申請がようやく許可され、八王子〜横浜間に私鉄横浜鉄道が敷設されることになったのが1905年。3年後の1908(明治41)年に八王子〜東神奈川間42.6kmが開通したが、当初の目的であった港への路線延長という課題が残っていた。
 


そのあたりの経緯は東神奈川駅の改札付近にも資料が展示されている


そこで、港までの延伸に着手することにしたが、横浜鉄道の海側には平行してすでに開業している京浜電気鉄道の線路があったため、高架をつくり交差させる必要があった。
 


そのあたりの状況も東神奈川駅の資料を見るとわかりやすい
 

地図下部の横浜鉄道(赤い線)から分岐した線が港へと伸びている
 

さらに拡大すると京浜電気鉄道(青)と横浜鉄道貨物線(赤)が交差しているのがわかる


この工事は後からできる横浜鉄道が回避するのが普通だが、京浜電気鉄道は軌道法(いわゆる路面電車)、横浜鉄道は鉄道法によって敷設許可を得ており、当時は軌道と鉄道が交差する場合は軌道側に回避措置義務があったため、京浜電気鉄道が回避措置として高架化することになった。

神奈川新町から仲木戸駅を経て神奈川駅まで京浜電気鉄道の築堤化工事がおこなわれ、1910(明治43)年7月26日に下り線、30日に上り線が完成する。そして貨物線が走ることになっていたのがまさにこのレンガ壁がある高架下(3)なのだった。

調べてみると明治43年6月9日の『横浜貿易新報』に「京浜電車高架線の竣工期」という記事があり、「高架線工事は全部横浜鉄道会社において、施工しつつあるが煉瓦積み及び土工に関する工事はほぼ落成せしに依り」という記述があったことから、工事は全額横浜鉄道が負担したこともわかった。
 


さっきとは反対の海側から。この先で横浜鉄道と合流していた


それがわかると違和感たっぷりだった奇妙な空間たちはみるみるひとつに繋がった。1910(明治43)年10月に開通した東神奈川〜海神奈川間1.3kmの貨物線跡だったのだ。
つまり、露出するレンガは、交差する貨物線をくぐらせるため104年前につくられた、高架の側壁だったのである。
 


赤い線が貨物線跡、緑色部分がレンガ壁の高架下(3)である(Googleマップより)


しかし、貨物線開通後まもなく、当時国の鉄道行政を所管していた鉄道院(鉄道省の前身)が横浜鉄道を借り上げ、八浜(はっぴん)線という名称に変わる。海神奈川駅は赤い線が伸びた先の千若町2丁目につくられ、正式には翌1911(明治44)年12月10日に開業するのだが、その時すでに経営は国に移っていたことになる。

その後1917(大正6)年10月に、借り上げ状態だった横浜鉄道はついに鉄道院に買収され横浜線となる。同年6月には東海道線貨物支線鶴見〜高島間が開通し、長らく横浜線の貨物延長線と平面交差していたが、1934(昭和9)年に海神奈川駅を東神奈川寄りの千若町1丁目(現在の神奈川水再生センターあたり)に移動することで、平面交差は解消された。
 


このあたりに2代目海神奈川駅があった
 

そしてその先のこの踏切で東海道線貨物支線と直角に交差して
 

この近くに最初の海神奈川駅があった


1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で東神奈川〜海神奈川駅間も破壊されることになり、戦後もそのまま放置されていたが、1959(昭和34)年4月1日に廃線となったというのが、レンガ壁の高架下を走っていた鉄道の結末である。

なぜ現在もレンガ積みの壁の高架が残っているのかを京急広報に問い合わせたところ、(3)についても(4)についてもあえて残しているわけではなく、現在の状態で運行に問題がないためであり、歩道側に立てられたフェンスも保護などのためではなく、京急の敷地と道路(市の管轄)を分けるためのものという回答だった。

「関係各所に問い合わせてみましたが期待に添えないふつうの回答になって申し訳ないです」と言ってもらえたのが何だか嬉しかった。



築堤の始まりと終わり

資料を読んでわかったのは、仲木戸駅の前後に伸びる築堤は地形の高低差のバランスをとるためではなく、横浜鉄道と交差するためにつくられたということだ。そこで、築堤の始まりと終わりを確認してみることにしたのだが、なるほど歩いてみるとほとんど平地だった。
 


まずは神奈川新町方面へ歩く。気がつくと築堤は低くなってきていて
 

あっという間に手が届きそうな高さになり
 

神奈川新町駅前の踏切の手前で完全に消えた
 

続いて神奈川駅方面へ。仲木戸駅を通り過ぎて高架下(1)まで戻ってくぐり
 

仲木戸方面を振り返ると滝野川があるため少し低くなっていることがわかる
 

川を渡り歩いていくと
 

こちらも築堤は踏切で地面に吸収されていった
 

仲木戸駅方面を振り返る
 

築堤の範囲を緑色の線で示してみるとこうなる(Googleマップより)