簡易宿泊所が残っているのはなぜなのか? 東神奈川周辺にひっそりと点在する「ドヤ」内部に突撃!
ココがキニナル!
神奈川区神奈川に、ドヤのような宿泊所が並んでいる場所がありました。一般のバックパッカーでも泊まれるのでしょうか?(ときさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
東神奈川~神奈川新町の簡易宿泊所は港湾関係者が多く利用していたそうだが現在は生活保護受給者の利用がほとんど。バックパッカーは泊まれない
ライター:山崎 島
仲良し簡宿もある
東神奈川の簡宿を2軒回ったが、京急線で一駅行った神奈川新町にも足を延ばした。
神奈川新町ー
からちょっと行ったところの
東神館(とうしんかん)
管理人室のドアをたたくと、中からご婦人が出てこられた。
ご夫婦で同簡宿を管理されている
取材についてご説明すると、快く受けてくださった。ありがとうございます。
1階
東神館は約70年前からあるそう。奥様によると「昔は出田町の船関係の人が利用されてましたね。当時はみんな寝に帰ってくるような使い方してたけど。今はねえ、日雇いの人は少ないわね。ご年配で生活保護受けてる人がほとんど」だという。同簡宿は4階建ての、全部で60部屋もある大きな施設。共同トイレと洗濯場を確認できたが、シャワーはついていなかった。
「今は25人ぐらいの人がいて、新しい人は入れていません。川崎の火災があってから、利用希望の方がいらしたけど、お断りしました。建物も古いし、ここのオーナーさんも、もう閉めたがってるの。ただ、今いる人たちに無理やり出ていってもらうのはかわいそうだから、人がいなくなるまでは続けます」とのこと。同簡宿の宿泊料は1週間か10日単位での支払い制。滞納する方もいるそうだが、お金が入ると支払ってくれるらしい。
2階のお部屋を見せていただいた
まず2畳のお部屋(一泊1100円)
4畳のお部屋(1200円)
正直、かなり古い。確かに、新たに人を入れてこの建物を存続していくのは、難しいかもしれない。
「古いですけど、ここは利用している方々が、みんな仲が良い簡宿なんです。私が何か困ったことがあると、みんなすぐ駆けつけて手助けしてくれますし。いい所なんですよ」と奥様。ちょうど通りがかった男性にもお話を伺うことができた。
消火器
10年以上同簡宿にお住まいという男性は、かつて京浜工業地帯にある会社の寮にいたが、寮が無くなってこちらに来られたそう。「アパートも借りられるけど、ここにいる人たちはみんな家族のように思っているから、ここで暮らしているよ。ここは特別みんな仲が良くて、ほかの簡宿は喧嘩や盗みのトラブルが後を絶たないみたいだね。やっぱり“お母さん”がいるのが大きいかな。“お母さん”が困るから喧嘩もしないし、万が一喧嘩があってもお母さんが間に入って止めてくれる。その時の“お母さん”は本当にたくましいよ」と笑っていらした。決して快適とは言えない環境でも、笑いあえる人がいれば、明るく温かく暮らしていけるんだなあ。じんとした。
廊下には笑い声が響いていた
神奈川新町の簡易宿泊所は、昔からずっとここ東神館と駅の付近にあるもう1軒の、計2軒だけだそうです。皆さんどうもありがとうございました。
場所によって雰囲気が全然違うことに驚いた。が、今も昔も利用している人たちの境遇には一貫性が見られた。
どうして神奈川区に簡宿が点在しているのか考察する
話を伺った東神奈川と神奈川新町の簡易宿泊所3軒は、かつては港湾関係者が利用していたとのことだった。近くには京浜工業地帯があり、みなさんそこで働かれていたのではと考えられる。
京浜工業地帯が形成されたのは第一次世界大戦(1914年<大正3年>から1918年<大正7年>)ごろ。当時は横浜市が誘致をし、海岸沿いの埋め立て地に日清製油などの大手企業が工場を構え、景気がよかった。工業地帯付近の新浦島町や千若町(ちわかちょう)、小野町には、工場の従業員向けの料理屋や活動写真館、寄席などが立ち並び、にぎわっていた。
現在の京浜工業地帯と東神奈川(GoogleMapより)
第二次世界大戦後、横浜市の90パーセントの港湾施設がアメリカ軍に接収された影響を受け、京浜工業地帯の生産活動も低下するが、接収が解除されると再びにぎわいが戻る。
京浜工業地帯
神奈川区のドヤ街に関しての資料が見つからなかったため、何故東神奈川と神奈川新町周辺にドヤ宿が点在しているのか、どのような人たちが利用していたのか、明確なことは不明だが、アメリカ軍に接収され、職安所が近くにあったという点が、中区寿町の歴史と共通している。
寿町のように簡宿が集まり街のようにはならなかったものの、神奈川区の臨海地区という、広い範囲に簡宿が点在しており、今以上に労働者の方々でにぎわっていた歴史を想像することができる。
1966(昭和41)年ごろから多くの工場でコンピュータが導入され始め、工業地帯における労働者の生産率はぐっと上がった。さらに神奈川県が統計した資料には1973(昭和48)年の第1次オイルショックの影響で生産量が低下し、1970(昭和45)年~1980(昭和55)年の労働者は 11 万 3000 人ほど減少したとあった。
解雇された方々がその後どこへ行って、どんな生活をしているのか、資料は見つからなかった。今回取材した簡宿には、長く住まわれているご高齢の方もいらして、中には京浜工業地帯のなかでの激動にもまれてきた方もいらっしゃるだろう。その一人ひとりに詳しいお話を伺うことは、今回できなかったが、少なくとも一部の方がどんな場所で生活しているのかは、自分の目と鼻と肌で知ることができた。
取材を終えて
横浜の繁栄が華々しく語られる世の中で、その成長を自分の体で支えてきた人たちの、その後のことを、私は全然知らなかった。
このテーマに向かうのは、相当時間がかかるし、限界があるのかもしれないが、慎重に向かい合っていきたい。
―終わり―
参考文献
『かながわ区物語~海・緑・街・人~』横浜市神奈川区役所区政部区推進課
『区政50周年記念 神奈川区史』神奈川区史編纂刊行実行委員会
『京浜工業地帯』著者不明
Aliceさん
2019年09月20日 07時25分
これはもう、シェアハウスじゃないですか。老人向けシェアハウス。
uechanさん
2018年04月19日 19時54分
20年ほど前、恐らく簡易宿泊所を利用する方が訪れていたと思われる食堂に偶然入ったことがあります。東神奈川駅のすぐ近くだったと記憶しています。よそ者という感じでお客さんたちは私に視線を向けていたと思います。料理が小皿ごとに分けられていて、ひと皿いくらという勘定だったと思います。一品一品がとても安かったことも覚えています。あの辺りは再開発されましたから、まだ営業しているんですかね。
viva平塚さん
2016年03月07日 20時29分
汗と涙とエロい想像にまみれた高校時代がキニナル