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片倉町から鴨居駅まで、市バス36系統が通る菅田道路に多くある神社やお寺、道祖神を徹底調査!

ココがキニナル!

片倉町駅から鴨居駅まで市バス36系統が歴史を感じる道だった。この道がどういう道だったか、道路沿いの神社はどういところか、付近の道路建設の歴史な観点も交え調査を!(茱萸澤村民さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

片倉町から鴨居駅までのこの道路は「菅田道路」。付近には最勝寺や神明社などのお寺や神社があり、道路沿いには双体道祖神・庚申塔などがあった。

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ライター:橘 アリー

道路沿いには多くの石碑が!(つづき)

「熊の堂」のバス停の次は「神明社入口」のバス停があり、バス停の名前となっている神明社は・・・
 


「神明社入口」の石碑がある交差点を
 

片倉町方面を背にして左へ曲がって行ったところにある
 

厳かな雰囲気の神社である

 
神明社は、創建年代は不詳であるが古来より菅田町全域の総鎮守(そうちんじゅ/特定の建造物、一定区域の土地の守護を目的にまつられた神である鎮守神のいるところ)であるそうだ。
 


「神明社入口」のバス停の横は小高い丘になっている

 
さらに進んで、猿渡のバス停の少し手前には・・・
 


「庚申塔(こうしんとう)」がある

 
庚申とは、十干の庚と十二支の申の日が組み合わされた日のことで、日では60日に一度、年では60年に一度回ってくる。庚申信仰は『六人衆の道案内その9』によると、中国の道教から始まったと言われている。平安時代に日本の貴族社会に伝わり、鎌倉時代には武士、江戸時代には庶民の間に広まっていったという。
 


この場所の庚申塔は2基

 
その考えは、人間の体内には「三戸(サンシ)」という虫がいて、庚申の夜に人が眠ると体内から抜け出して、その人が行った悪事を天の神様に告げ、それによって人の寿命がきまるとされているもの。しかし虫は、人間が起きていると体から抜け出せないので、庚申の夜には一晩中起きていたそうである。

これは庚申待(こうしんまち)と言われ、古文書『下菅田村平左衛門記録帳』にも、江戸時代に菅田で庚申待が行われたことが記録されている。

徹夜で起きていて何をしていたのかというと、青面金剛(しょうめんこんごう)や猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀って、その前で一晩中語り明かしていたそうだ。
そして、それを記念して庚申塔を立てたという。
 


2基とも、青面金剛像が刻まれている。手が六本ずつある

 
近づいて確認してみたが、作られた年代がどこに刻まれているのか分からなかった。『神奈川区石造物一覧表』で確認すると、1基は1740(元文5)年でもう1基は1754(宝暦4)年。残念ながら、像に触らないと像に刻まれている年代を確認出来ないので、どちらがどの年に作られたのかまでは不明である。

また、庚申塔は道の分岐点に設置されて、道路の行先を刻んだ道路標識を兼ねることも多いようである。ここの庚申塔も、道路の分岐点にあるので、道路標識の役を担うこともあるのだろうか。


続いて、ここで・・・
 


ちょうど「庚申塔」の近辺を掃除されていた方がおられたのでお話を伺った
 

ご近所に住んでいる、今年74歳になるという高山さん

 
掃除は、特に決められているのではなく「地域の役に立ちたい」という想いから自主的に行っておられるそうだ。
高山さんによると、地元の方の中には、この庚申塔をお参りする人もおられるとのこと。

そして、この地域の昔の様子について伺うと、今から30年くらい前までは、大雨が降ると、この近辺は近くを流れる砂田川が氾濫して水浸しになってしまったそうである。
現在、砂田川は菅田道路の小机側方面を流れるようになっていて、きちんと整備されているので、大雨が降ってもそう簡単に水が溢れる心配は無いようだ。
 


なお、菅田道路沿いにも水路があり
 

小机方面側の水路脇には花が植えられ、小さな水辺として親しまれているようである

 
続いて、庚申塔から十数メートル進んだ辺りに「猿渡」のバス停がある。
 


「猿渡」も「熊の堂」同様、最勝寺のご住職によると昔の字名であるようだ
 

そして、鴨居方向の「猿渡」バス停、数メートル手前には「堰上橋跡(せきあげばしあと)」の石碑
 

その先数メートルの辺りに「八幡橋跡(やわたばしあと)」の石碑
 

またその先数メートルには「新菅田橋跡」の石碑がある

 
これらの橋はどのような橋だったのか、横浜市道路局建設部橋梁課に問い合わせてみた。
 


快くご協力くださった、居山(いやま)さん(左)と樽川(たるかわ)さん

 
資料として残っている1996(平成8)年当時のそれぞれの橋の写真を見せていただいた。
 


こちらが在りしころの「堰上橋」。手前の道路が菅田道路
 

横から見るとこのような様子
 

こちらがかつての「八幡橋」。手前の道路が菅田道路
 

横から見た「八幡橋」。「堰上橋」と良く似ている
 

そして、こちらが「新菅田橋」。手前の道路が菅田道路
 

横から見ると、やはり「八幡橋」「堰上橋」と似ている

 
どの橋も似た様子ではあるが、砂田川が菅田道路沿いを流れていた当時は、地元の人々にとって、川を渡る重要な橋であったようである。

現在は、橋の跡の碑のほかにも・・・
 


川があった面影が、このように道路沿いに残されている(写真の右側が菅田道路)
 

その先には「新道慶橋(しんどうけいばし)」があり

 
砂田川はこの場所から、菅田道路から小机方面側へ流れるようになっている。
 


新道慶橋の近くに案内板があるので、これで菅田道路と砂田川の位置関係を確認できる

 
神奈川土木事務所に確認したところ、新道慶橋近辺の護岸工事は昭和60年代から平成の初めごろにかけて行われたとのこと。

それ以前も川の改良工事が行われていたようだが、昭和60年代以前の資料はもう残っていないそうだ。

また、新道慶橋の横には、土地改良記念碑がある。
 


1978(昭和53)年に土地を改良した記念に立てられたもの