港南区にある「関」「関の下」「関の上」のバス停には、どんな由来があるの!?
ココがキニナル!
港南区に関の下・関・関の上と言うバス停が有ります。このバス停の由来を調べて下さい!非常にキニナル!(☆★☆★☆★さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「関の下」「関の上」と「関」バス停は別の由来がある。「関の下」「関の上」は川の堰、「関」は篠笥城(ささげじょう)の正門(関)から。
ライター:橘 アリー
その昔、関所があったから!?
江ノ島電鉄株式会社本社広報課によると「関の下」「関の上」「関」のバス停は、このバス路線ができた当時からあり、少なくとも1949(昭和24)年以前からあるようだとのこと。
資料『江ノ電の100年』で確認すると、1949年5月20日に神奈川中央乗合自動車から譲受された路線のバス停であるようだ。
江ノ島電鉄の社史である『江ノ電の100年』
名前の由来については、資料に載っていないので不明。
ただ「関」バス停については、昔、近くに関所があり古い字名が「関」だったことに由来しているという話を伝え聞いていると教えてもらえた。しかしながら「関の下」「関の上」については、どういう意味なのか全く分からないとのことである。
ここで、まず本当に近くに関所があったのか調べてみた。
資料『こうなん歴史アルバム』によると、「関」バス停近くにあった関所とは、1878(明治11)年に郡区町村制がしかれた時に設けられた郡役場であるようだ。
郡役場があった当時、この地域はとても栄えていた(『こうなん歴史アルバム』)
しかし、さらに調べていくうちに、この関所は「関」の字名とは関係がないことが明らかとなった。
「関」の字名の由来については資料『関の郷土史』で触れられている。
この地には、室町時代末期の戦国時代、1500年代中期ごろに間宮豊前守信元(まみやぶぜんのかみのぶもと)によって築かれた篠笥城(ささげじょう・のちに笹下城)という城があったそうだ。城の大手(おおて・正門、正面のこと)のことを関とも言い、篠笥城の大手(関)がここにあったことから「関」が地名(字名)となったそうである。
篠笥城のような山城の門は、このような様子(画像は同じく山城の鳥越城/フリー画像)
「関」が篠笥城の大手から来た由来の地名であること、そして関所があったことで「関」というバス停が設置されたことが分かった。
では「関の下」「関の上」はどうなのだろう? 「関」がここにあったのなら、やはり「関の上」「関の下」の間に「関」バス停がなければおかしい。そこで、この地域の歴史に詳しい方に聞いてみることに。
関の下と関の上は関所と関係ない?
港南区の歴史に詳しい、港南区歴史協議会の茅野眞一(ちの・しんいち)さんと長谷川敏雄(はせがわ・としお)さんにお話を伺った。
すると「関の下」「関の上」は共に、小字(こあざ・住所の区画名)であることが明らかとなる。
港南区歴史協議会が編集・発行している港南区小字地図(オリジナル版港南区マップ)
写真の赤丸が「関の下」、青丸が「関の上」、黄色丸が「関」である。
そしてこの「関の下」「関の上」の“せき”とは川の堰のことだそうだ。
このような川の堰がここにあった?(フリー画像より)
実はこの地は、江戸時代、大岡川と日野川が合流する少し手前であった。そこに“堰”が作られ、それが小字名の「関の下」「関の上」の由来になったそうである。つまり「堰の上」「堰の下」というわけだ。
大岡川と日野川が合流する少し手前に堰があった
緑色が大岡川で青色が日野川。写真の紫丸が大岡川と日野川の合流するところ。
緑丸の辺りが堰のあったところ。バス停は、赤丸が「関の下」、青丸が「関の上」、黄色丸が「関」。
現在は漢字で関という文字が使われているが、昔は漢字が使われていなかった。「せきのした」「せきのうえ」と表記されていたそうだ。それが伝わっていく間に、川の堰を意味していたものであるが、いつしか「関」の漢字が使われるようになっていったようである。
「関の下」「関の上」バス停は川の堰が由来。
そして「関」バス停の由来は関所と篠笥城の関からきたもの。
これほど近くにありながら「関の下」「関の上」と「関」バス停には実は関わりはなかったのだ。
取材を終えて
今回も、昔の字名がバス停の名前として残っていた。
そして、同じ漢字が使われているのに、その由来が違うのはなんとも不思議で面白いものである。
ほかにもキニナっているバス停名などあれば、投稿してほしい!
―終わり―
参考文献
『関の郷土史』
『こうなんの歴史アルバム』
『街づくり歴史アルバム』
『こうなん道ばたの風土記』
『江ノ電の100年』
セカイノ尾張さん
2016年01月10日 15時48分
城門と川の堰がたまたまこのあたりにあって、たまたま似たようなバス停名につながったというのは興味深かったです。他にもあるなら知りたい!