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金沢区称名寺の裏山にある八角堂に、地下へ続く「抜け道」があるって本当?

ココがキニナル!

称名寺の裏山にある八角堂に地下へ続く入口?がありコンクリ密閉されてます。北条実時の逃げ道で抜け穴出口、住職の修行場、地下墳墓とか噂があり。いつ頃何に使われ、何故コンクリ密閉されたのか(dajaさん)

はまれぽ調査結果!

八角堂には約35年前まで地下室に通じる階段があったが、災害防止を理由に密閉。地下には抜け穴出口はなく納骨室があり、住職の修行場ではなかった

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ライター:小方 サダオ

八角堂の起源とは



次に称名寺の副住職・須方審證 (すがた・しんしょう)さんに八角堂に関して伺うことにした。

須方さんによると「八角堂は1935(昭和10)年に大橋新太郎(おおはし・しんたろう)氏に寄付されたものです。以前は自由に八角堂へ入ることができ、地下への階段もありました」

「私も約35年前に入ったことがあります。堂内に10段ほどの地下へ降りる階段があり、その先は地下室になっていました。深さはあまりありませんでした。また正確な時期は分かりませんが、入口は埋められました」とのこと。

さらに投稿の「逃げ道の抜け穴」や「住職の修行場」について伺うと「そのような事実はありません」とのことだった。

 

大橋新太郎肖像写真(『目で見る近代の金沢』金沢文庫編 県立金沢文庫)
 

そこで大橋氏について調べてみると、横浜市のホームページに大橋氏についての記述があった。

父・大橋佐平(おおはし・さへい)氏は1887(明治20)年に出版社「博文館(はくぶんかん)」を創設し、その後出版界に一時代を築いた。新太郎氏は、1902(明治35)年に日本初の本格的な私立図書館「大橋図書館」を東京の邸内に建設し出版界から政財界へ活動の幅を広げたという。

金沢との関わりは、新太郎氏が1905(明治38)年ごろに風光明媚な金沢が気に入り、称名寺東隣にある海岸尼寺(かいがんにじ)の跡地に別荘を建てたことから始まっているとのこと。

 

日向山を背にした大橋氏別荘の庭園と持仏堂(『六浦文化研究』 六浦文化研究所)
 

その後、新太郎氏は、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊した金沢文庫の再建にあたり、1928(昭和3)年に多額の寄付を行った。また、被害を受けた称名寺の本堂や鐘楼(しょうろう)を復興するために寄進も行ったという。

そして1935(昭和10)年に、創立者・北条実時の660年忌を記念して、境内の金沢三山に観世音菩薩を100体配置したお参りコースを作り、金沢山の頂上に八角堂を作った、とのことだった。

 

1935(昭和10)年に行われた百観音開眼式(『目で見る近代の金沢』金沢文庫編 県立金沢文庫
 

1935(昭和10)年の百観音開眼式の様子(同)
 

また、金沢区の歴史などが書かれている『かねさは物語』に、八角堂の地下室についての記述があった。

『かねさは物語』によると、堂の下には高さ8尺(約2.4メートル)の地下室があって、たくさんの棚が設けられていた。これは一般人の分骨を預かるためのもので、大橋一族の分骨も納められている、とある。

 

1935(昭和10)年10月の金沢山八角観音堂(同)
 



称名寺にある隧道と洞窟



八角堂には「地下室はあった」とのことだが、投稿にある抜け穴出口のような地下道はなかったようだ。

ただ、称名寺の境内には、隣接する金沢文庫をつなぐ隧道がある。
八角堂は納骨のための施設で、抜け道はなかったが、周辺の地元住民からは「境内にある隧道内に洞窟があり、その洞窟は鎌倉に続いているという噂があった」とキニナル投稿の噂話と合致するような話を聞いた。

その隧道や隧道内の洞窟が、投稿の噂のひとつである「北条実時の逃げ道で抜け穴出口」と言われたのだろうか。

 

称名寺境内には金沢文庫へ繋がるトンネルがある
 

境内から金沢文庫へ繋がるトンネル近くには古い隧道があった。

 

金沢文庫へ繋がるトンネル(青線)と古い隧道(緑線)
 

隧道は現在入れないようになっている
 

この隧道は、境内と金沢文庫を繋いでいたようだが、隧道の入口にある説明板によると、称名寺には東側と西側に隧道があり、中世に作られたものとのこと。

 

隧道についての説明が書かれている
 

1323(元亨3)年に描かれた『称名寺絵図』には、阿弥陀堂のうしろの山麓に両開きの扉があり、その洞門の位置は東側の隧道と一致するという。

 

扉のある隧道(青矢印)は中世の道路とつながっていた
(史跡称名寺境内 横浜市教育委員会文化財課編)
 

また、説明板には金沢文庫の建設直前に行われた発掘調査で、この東側の隧道に繋がる中世の道路の遺構が検出された、とあった。

 

鎌倉時代の隧道の様子(『金沢文庫案内』関靖著 県立金沢文庫
 

さらに、東側と西側の隧道のうち、東側は風化が進んでいるものの、西側は旧状を残しているという。

また『かねさは物語』によると、1939(昭和14)年の時点では、現在の称名寺境内の場所に金沢文庫があったが、その場所には1267(文永4)年まで実時邸宅があったそうだ。現在の金沢文庫が建てられている場所には、昭和塾という県の研修施設に付設された図書館と講堂があったという。

 

現在の金沢文庫
 

実時が山を隔てた不便なところに金沢文庫を建てた理由は、鎌倉は度々火事がおこり、極度に火災を恐れて、わざと山を隔てた安全な場所に文庫を立てることにした、とのこと。そのため実時は、この場所に文庫を往復するための隧道を作ったようだ。

 

1939年ごろの金沢文庫(緑線)と昭和塾(青線)、往復するための隧道(紫線)
(『金沢文庫案内』関靖著 県立金沢文庫
 

隧道の隣には、数段上がった場所がある。そこにも隧道があり、これが東側の隧道だという。この東側の隧道が前出の地元住民が噂していた「内部に鎌倉へ続く洞窟がある隧道」のようだ。

 

鎌倉時代からある西側の隧道(青矢印)と洞窟がある東側の隧道(緑矢印)
 

東側の隧道の入口にも、金網が張られている
 

西側の隧道(青線)と東側の隧道(緑線)(史跡称名寺境内 横浜市教育委員会文化財課編)
 

この東側の隧道は、中世時代の道路に繋がっていたので、この隧道を使って、武士が鎌倉と金沢を行き来していたのかもしれない。

 

称名寺の案内図には隧道(青線)と洞窟(緑線)の記述がある
(『金沢文庫案内』関靖著 県立金沢文庫