元横浜DeNAベイスターズ選手のセカンドキャリアとは?-小林公太さん-
ココがキニナル!
元横浜DeNAベイスターズ選手、小林公太さんのセカンドキャリアとは?(はまれぽ編集部のキニナル)
はまれぽ調査結果!
2012年にDeNAベイスターズから戦力外通告を受け、その後アメリカに渡るも2013年に引退。現在はラーメン店「夢を語れ」の店主をしている
ライター:山口 愛愛
アメリカでの挑戦と挫折から夢が広がる
この時、まだ21歳だった小林さんは、野球を続けるためにNPB(国内の)12球団合同トライアウトに望みをかけた。
4人の打者に対して思い切り攻め、3打数ノーヒット、1四球の結果だった。トライアウトから契約に結び付く選手は育成枠の再契約を含めても1割にも満たないが、小林さんの変則サイドスローのフォームに目をつけ、あるスカウトが動いた。手を上げたのは、「まさか」と思ったというアメリカのプロ野球チーム、クリーブランド・インディアンスだった。
「昔からアメリカで野球をやってみたい思いはあったので行くしかない。アメリカでもう1回野球をやって、ダメならスパッとやめようと思った」。こうして正式にマイナー契約を結び、アメリカに飛び立つことになった。
野球を続けられるチャンスを手にした
稀なケースで、マイナーからメジャーリーグを目指すことになった小林さん。英語を話すこともできなかったため、新しい世界で野球人として生きていくためにすべてのポテンシャルを上げなければいけなかった。
ここでまた大胆な行動に出る。武者修行するためにわざわざ自費でプエルトリコの「ウィンター教育リーグ」に参加した。プロチームを目指す若手選手が各国から集まり、毎日いろいろな球場を巡りながら試合を重ねるリーグだ。英語は分からないが、明るい振舞いでコミュニケーションを取り、チームメイトから信頼を集め、海外で野球をやる自信をつけていった。
いつでも積極的に行動に出る
こうしてインディアンス傘下のマイナーチームのルーキー級、アリゾナリーグ・インディアンスでプレイすることになり、2012(平成24)年6月からマウンドに上がる。
「見たことのない、いかついバッターが多かった」が、臆せずに強気のピッチングを見せ、野球と向き合った。
日本から離れた地で1人、「毎日、毎日が勝負で、今日がダメだったら明日クビになるという環境の中、精いっぱい野球ができたことはすごい財産です。その経験は、今の店にも生きている」というように日々全力で戦った。
「野球も店も毎日が勝負」
小林さんは5試合に登板し1失点に抑えていたが、初登板からわずか1ヶ月で解雇という厳しい現実を突きつけられた。「すべて出してやりきったので、すっきりと辞められた。次は何しようか!」と前向きな気持ちになれたという。
その後、同年にアメリカ独立リーグのハワイ・スターズから日本遠征の投手が足りないため、試合要因として頼まれて参加したが、このときにはすでに引退を決意していた。
悔しさや寂しさより、今後何をやろうかと考えるほうが楽しみだったという小林さんは、海外で貴重な経験を積んだことで、「この時代、英語がしゃべれないと社会でやっていけない」と思ったという。
広い視野で新しいステージへ
日本で英語を磨いても甘えてしまうと感じ、2014(平成26)年から、1年間オーストラリアに語学留学をした。朝から夕方までみっちり英語を学び、学校や店でもふだんから積極的に会話を重ねた。野球で過酷な環境を乗り越えてきた小林さんでも「課題やテストが多く、とくに前半はついていくのがやっとでキツかった」と苦笑い。
最初はまったくしゃべれなかったが、だんだんと日常会話ができるようになり、放課後に飲食店の厨房でアルバイトを始めた。調理技術はもちろん、実践的な会話で英語を自分のものにしていった。
アルバイトのときから料理の腕は評価されていた
オーストラリアから帰国し、経験を生かして「飲食店をやろう! 何をしようかな?」と考えていたとき、アメリカ滞在時に食べたラーメンが頭に浮かんだ。決して美味しくはなかったが、忘れられない味だった。「よし、ラーメンを勉強しよう!」と思った、そんなときに転機が訪れた。
ベイスターズ時代に応援してくれていた企業の社長から「ボストンにおもしろいラーメン屋があるから行ってみないか」と誘われ、このひと言が小林さんの人生を動かした。