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横浜の戦争遺跡はどうなってるの?

ココがキニナル!

横浜こどもの国 かつて陸軍弾薬庫だったそうですが、この名残を見ることはできるのでしょうか。また 浅野学園近くにも防空壕跡もあります、横浜の戦争の史跡を知りたいです(ばらさまさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜こどもの国には今も地下壕があり、要望があれば見学会を開催している!

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ライター:松崎 辰彦

戦時中の浅野学園付近は戦火に包まれた

1945(昭和20)年5月29日午前9時、晴れ渡った横浜の空に米軍のB-29爆撃機、P-51戦闘機の総計600機近い編隊が飛来し、大量の焼夷弾を投下した。

米軍はあらかじめ攻撃ポイントとして東神奈川駅周辺や平沼橋、市役所など数カ所を選定しており、家屋のほとんどが木造だった当時、火災により多くの一般市民が犠牲になった。
 


猛火に包まれた市街(画像提供:横浜市史資料室)
 

野毛の焼け跡風景(
画像提供:横浜市史資料室)
 

罹災(りさい)後の元町商店街(
画像提供:横浜市史資料室)


今は平和な学園も、その昔戦火に包まれ、底知れぬ悲しみに覆われていたのである。



「横浜こどもの国」はかつて弾薬庫だった

青葉区奈良町にある「横浜こどもの国」は、現在でこそ平和の象徴とも言うべき子供たちの歓声に包まれているが、太平洋戦争中には旧陸軍田奈弾薬庫補給廠(しょう)として、陸軍の指導下にあって戦場で使う弾薬の製造・保管・発送を行っていた。

なぜこの地が選ばれたかについては、「横浜こどもの国」の資料によると

  • 陸軍のあった相模原に近かった。
  • 地表近くまで粘着性のある固い岩盤があり、落盤の心配が少なかった。
  • 低い丘陵と谷が入り組んだ地形のため、防空上優れていた

──という理由が挙げられている。
 
園内を歩くと、丘の中腹をくり抜いて作られたいくつもの四角い地下壕が目に入る。分厚いコンクリートで覆われ、鉄の扉に固く閉ざされている。
 


丘の側面に作られた地下壕。別世界の入り口のようにも見える

 
1938(昭和13)年に国家総動員法により、13件あった農家が立ち退いて東京の新橋の松村組が工事を請け負った。1941(昭和16)年に敷地内の補給廠西側が完成し、東京陸軍兵器補給廠部隊が発足した。

製造していたのはおもに野戦砲や高射砲。1945(昭和20)年ころからは手榴弾が多くなった。
 


この扉の向こうに何があったのだろう


働いていたのは横浜第二中学校(現 翠嵐高校)4年生250人、 神奈川高等女学校 (現 神奈川学園)3-4年生200人と記録されている。1944(昭和19)年には中学生を乗せていたトラックが川に転落、6人が死亡した。さらに1945(昭和20)年には棒地雷が爆発し、6人が死亡した。