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横浜・菊名駅近くにある趣あるレンガ造りの橋台の歴史とは?

横浜・菊名駅近くにある趣あるレンガ造りの橋台の歴史とは?

ココがキニナル!

横浜線菊名駅の大口寄りに歴史を感じるレンガ橋台があり、周囲の風景から異彩を放っています。すでに役目を終えているようですが、この橋台が現役だったころの様子を知りたいです(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

小さなレンガ橋台の謎を追うと、100年以上前の横浜線開業当初の姿が浮かび上がってきた。橋の下にはかつて川も流れていた。心ない落書きに汚されたレンガ積みの橋台は、貴重な歴史的遺構だった

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ライター:結城靖博

レンガ橋台は100年以上前の歴史の痕跡を今に伝えていた!


 
後日、大倉精神文化研究所の平井誠二(ひらい・せいじ)研究所長にお会いすべく、東横線大倉山駅からほど近い横浜市大倉山記念館を訪れた。平井所長は、「はまれぽ」にもたびたびご登場いただく、港北区の郷土史研究の第一人者だ。
 


建てられてから90年近い歴史を誇る大倉山記念館

 


そしてこちらが平井所長

 
「こういうステッカーを集めるのが趣味なんです」と、差し上げたはまれぽステッカーにご満悦の平井所長に、さっそくお話を伺った。

撮影したレンガ橋台の写真をお見せすると、この橋台については、ご自身の港北区史研究レポート『シリーズ わがまち港北』の中で取り上げているという(第117回)。
そして、「この橋台が残っていることで、開通当時の横浜線の線路の高さがわかるんですよ」と教えてくれた。

どういうことか?

遡ること約110年前の1908(明治41)年、横浜線は開通した。だが横浜線に菊名駅ができたのは、その18年後の1926(大正15)年9月。同年2月の東横線菊名駅の開業にあわせてのことだった。

ただ、東横線はすでに敷設されていた横浜線の下を潜る形で作られたため、地面を1メートルほど掘り下げる必要があった。その結果、大雨が降るたびに冠水し、電車が不通になる事態が頻繁に起こることになる。
この長年の問題を解決するために、1972(昭和47)年に、ようやく横浜線を120cm、東横線を90cm程度かさ上げし、両線路が付け替えられたのだ。

したがって、今残っているレンガ橋台の高さこそ、かさ上げ前の横浜線が通っていた位置だったと平井所長は指摘する。
 


矢印の位置が開業当時の横浜線の線路の高さだった

 
また、このレンガの積み方は「イギリス積み」と呼ばれるもので、明治期の開業当時からのものと推定されるそうだ。
 


長辺と短辺を段ごとに交互に載せていくのが「イギリス積み」

 
 
 

やっぱりここには川も流れていた!


 
ところで、この橋台の足下には川が流れていたのではないか?
これについても平井所長に尋ねてみると、「はい、その通りです」とご回答いただいた。
「土地の古老から聞いたところでは、正確には、今バイクが並んでいる辺りに川が流れていて、横の道路は以前も道だったようです。川と言っても、正しくは農業用の用水路で、定期的に水路に溜まった泥をさらわなければならない。そのさらった土を水路沿いに積んでいた場所を人が歩くようになったらしいです」
 


左側のバイク置き場に川が流れていた

 
「また、ここにはドンドン橋という橋もかけられていたそうです」
えっ、ドンドン橋? かつて筆者が取材した南区・ドンドン商店街のドンドン川(「まさに奇跡!横浜・ドンドン川護岸跡がドンドン商店街に姿を現す!」)は大雨のたびに川がドンドンと音を立てるからその名がついたらしいが、ここも?と思ったがそうではなかった。
「杭を打って板を渡しただけの簡易な橋でしたから、歩くたびにドンドン音がしたのでそう呼ばれていたようです」

その川の名は「大豆戸菊名(まめどきくな)用水路」、あるいは「大豆戸根川(まめどねがわ)」などと呼ばれ、ここよりも南に位置する菊名池を水源に、近世以前から周辺地域の灌漑(かんがい)用水として農地を潤していたという。このレンガ橋台の前が、ちょうどその用水路の通り道だったのだ。

また筆者が菊名四丁目の交差点まで辿った暗渠道もやはりかつての用水路の一部で、その先は主に北西に広がる大豆戸地域の農地へ流れ鶴見川へと向かっていたという。ちなみに用水路の水利権はほとんど大豆戸地域が所有していたそうだ。

 

赤枠部分が現在の大豆戸町