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『まんが日本昔ばなし』の舞台になった、今はなき横浜・青葉区恩田の万年寺とは?

『まんが日本昔ばなし』の舞台になった、今はなき横浜・青葉区恩田の万年寺とは?

ココがキニナル!

「まんが日本昔ばなし」で1話だけ横浜の話があり、青葉区恩田が舞台の「万年寺の釣り鐘」があります。しかし、万年寺という寺は見当たりません。どの辺だったのでしょうか?(まりん☆ぽらりすさん)

はまれぽ調査結果!

万年寺は実在したが、場所や由緒、廃寺の理由などは不明。実在した場所にはいくつかの候補が。また『万年寺の釣り鐘』に似たような伝説がほかの寺にも残っている。

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ライター:小方 サダオ

万年寺が廃寺になったわけとは


 
ところで万年寺とはどのような寺だったのだろうか。文献をもとに万年寺について調べることにした。

郷土資料の『田奈の郷土誌』によると
「万年寺は字名のみ残っている。・・・昔戦争の頃、万年寺の鐘を陣中に奪い陣鐘に用い、のちに瀬谷村の妙光寺に持って行った」
とある。

そして、もうひとつ『都筑の丘に拾ふ』では、
「起立、廃滅、宗旨(しゅうし)、等知るすべがないが、遺物はある。同じ恩田町に徳恩寺(真言宗)があって聖観音を安置する。この聖観音は子歳観音霊場巡りで小机三十三所の第二十三番で、其御詠歌(ごえいか:仏教の宗教歌)に『鷲の山絶えぬみのりは万年寺仏の御恩頼もしきかな』 とある。
この歌の中の『鷲の山』は万年寺の山号霊鷲山のことであり、万年寺を謳歌したものだ」

とのこと。

万年寺についての情報はあまりないようで不明な点が多いものの、これらの文献からは、万年寺の鐘が妙光寺というお寺に移動し、徳恩寺にある観音像には万年寺に関する歌もあることがわかる。万年寺から引き継がれた遺物は残っていると思われる。
 


万年寺は鷲山という山のふもとにあった

 
『都筑の丘に拾ふ』には、宗教の流派となる宗旨についての記述もあった。
「徳恩寺は万年寺の観音を引き継いだものといえる。
小机三十三札所の御詠歌が作られたのが宝暦の頃(1764年頃)であることから、宝暦年間までは存続していたと考えられる。
万年寺の宗旨は、観音像が徳恩寺に引き継がれていることから真言宗と思われるが、鐘に万年禅寺とあることから禅宗とも考えられ、もしそうならば同じ恩田の曹洞福昌寺(ふくしょうじ)に引き継がれるはずで、宗旨については不明点がある」

とある。

観音像を引き継いだ徳恩寺が真言宗のため、万年寺は真言宗と考えられるが、万年寺の鐘には、禅宗を意味する「万年禅寺」と記載され、禅宗の可能性もあるようだ。ただ、禅宗であれば、同じ地域にある禅宗の曹洞福昌寺に観音像が引き継がれるだろうとし、万年寺の宗旨は不明とのこと。

そこで、『まんが日本昔ばなし』に出てくる鐘を求めて、瀬谷区の妙光寺に向かった。
 


日蓮宗妙光寺

 
まず、妙光寺の由来について。境内の案内板によると、
「652(白雉3)年に明光比丘尼(みょうこうびくに)が建てた庵を、大同年間(806~810)に辨通(べんつう)という僧が寺に成して天台宗福昌山明光寺と称したという。1282(弘安5)年、日蓮上人がここに一泊した際に、当寺の住職の文教(ぶんきょう)は教化され、日蓮宗に改宗し、同時に、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて開山。寺院の創始者を日蓮上人とし、文教は二世となった。
1452(宝徳4)年、相州瀬谷郷に住んでいた山田伊賀守入道経光(やまだいがのかみ・にゅうどうつねみつ)が大檀那(おおだんな、有力な檀家)となり、1325(正中2)年に鋳造された恩田の万年寺の梵鐘を寄進した。梵鐘は鎌倉時代(正中2年)の作で、今は神奈川県の重要文化財になっている」

という。
 


室町時代は瀬谷村と恩田村は隣同士。鐘は妙光寺にあった

 
妙光寺の住職に万年寺について伺うと、
「万年寺と当院の関係については由緒にあるように伝わっていますが、昔ばなしは面白おかしく伝えられるものなので、事実と違う場合があるのではないでしょうか?」とのことだった。

住職がそう話すのも無理はなかった。妙光寺に伝わる由来には、昔ばなしと異なる点が多いのだ。

妙光寺の梵鐘の由来について、調査を進めてみると。
瀬谷区のホームページに記載されている「妙光寺梵鐘の由来」によれば、
「五百年以上もむかしのこと。瀬谷の郷を治めていた山田伊賀守入道はたいへんな力持ちで知られた人でした。また碁が好きで、隣りの恩田村の万年禅寺の通周和尚とよく碁を打って楽しんでいた。万年禅寺は禅宗のお寺だが、山田伊賀守入道は法華宗(日蓮宗)の熱心な信者であったため、時には法論に花が咲く」
とある。
 


当時はお寺で碁や宗派間の問答が行われていたようだ

 
「妙光寺梵鐘の由来」には、ほかにもこんな記述があった。

「ある日、万年禅寺で碁を打っていた二人は、碁の方がおろそかになってきたので 『今日は法論で決着をつけようではないか』ということになり、その勝敗に何かを賭けることにした。 『私は鎧兜と腰の大小の刀を賭けよう』 と山田氏。すると通周和尚は『寺の梵鐘と半鐘にしよう』と話が決まり、火の出るような熱論となった。
長い問答のすえ、とうとう山田氏の勝ちとなる。 そこで、約束どおり、梵鐘と半鐘を取りはずした山田氏は半鐘を冠り、梵鐘に綱をつけて引いて瀬谷に帰ってきた」


これらの話では、禅宗の和尚が、ただの賭け碁でなく、宗教法論で勝負をつけ、その代償に梵鐘と半鐘を持って行かれている。この点は、冒頭の昔ばなしと大きく内容が違う。
また、真言宗でない点については、もしかすると万年寺は、この話よりも前に宗派を変えた時期があったのかもしれない。
 


法論は禅宗と日蓮宗の戦いになったという

 
この由来の続きには、鐘についての面白いエピソードもある。
「そして、その鐘を日頃信仰している妙光寺に寄進した。 しかし鐘を掛けてついてみると、万年禅寺にあった時のような良い音が出ない。 もの寂しげな泣くような音色なのだ」
 


妙光寺の伝説では梵鐘は碁ではなく、法論の賭け物になっている

 
「そこで『無理にはずしてきたので恩田の寺へ帰りたいのだろう』と、万年禅寺の通周和尚も招いて供養をしたものの、音色は戻らない。
今でもこの鐘をつくと『ゴーンダ、ゴオンダ』と聞こえる。山田氏が恩田から引きずってきた時、鐘のいぼがすり減って、その音色が変ったのだろう」

ということだった。
 


妙光寺の梵鐘には、梵鐘が移った由来が刻まれている

 
さらに宗旨についての話もあった。
「万年禅寺の通周和尚はその後、妙光寺第十二世日達の弟子となり、名を日栄と改め、妙光寺十三世を継ぎ、二山一寺を守った」という内容があり、万年禅寺の通周和尚が妙光寺を継いでいる。
このことから、妙光寺にまつわる由来をまとめると、昔ばなしの内容とは異なり、梵鐘は盗まれたのではなく、法論の賭け物として取られ、また昔ばなしで「住職が行方不明になった」とあった万年寺の廃寺の理由が、「住職が禅宗から日蓮宗に改宗して妙光寺を継いだ」ということになる。

昔ばなしの内容は、郷土史などの文献や妙光寺にまつわる由来とは少々違いはあったが、妙光寺の住職が話していたように、「宗派間の論争に負けて改宗し、万年寺を廃寺。その鐘を妙光寺に移した」だけの事実が、もしかしたら「賭け物」などの盛り上げる要素を加えて伝えられた可能性はあるのかもしれない。

続けて、観音像が引き継がれた徳恩寺に万年寺について話を伺うべく、調査を進めたが、お話を伺うことはできなかった。
万年寺の場所や引き継がれた由来、御詠歌の意図などについて、さらなる情報を得ることは難しくなった。

これらの内容から、万年寺は実在していたと考えられるが、その正確な場所はわからなかった。場所としては、万年寺の山号である鷲の山のふもとにあった可能性はある。
 


梵鐘は神奈川県指定重要文化財