『まんが日本昔ばなし』の舞台になった、今はなき横浜・青葉区恩田の万年寺とは?
ココがキニナル!
「まんが日本昔ばなし」で1話だけ横浜の話があり、青葉区恩田が舞台の「万年寺の釣り鐘」があります。しかし、万年寺という寺は見当たりません。どの辺だったのでしょうか?(まりん☆ぽらりすさん)
はまれぽ調査結果!
万年寺は実在したが、場所や由緒、廃寺の理由などは不明。実在した場所にはいくつかの候補が。また『万年寺の釣り鐘』に似たような伝説がほかの寺にも残っている。
ライター:小方 サダオ
取材を終えて
これから先は投稿のテーマからはそれるが、万年寺が廃寺になった理由の「宗派の改宗」の話と、昔ばなしの特徴的な点である「碁」と「僧侶」との関係について焦点を当ててみたい。なぜなら、「法論の結果相手を改宗させる」や「賭け碁」の話が、ほかの寺でも発見することができ、少なからず廃寺になった時代背景に触れることができるのではないかと思ったからだ。
ほかの寺に類話が伝わるわけとは
「法論のすえ改宗」「賭け碁」についての伝説は、青葉区の万年寺がある場所からほど遠い、金沢区の上行寺(じょうぎょうじ)にも伝わっていた。
歴史ある金沢八景の近くに鎮座する上行寺
このお寺の由来は、
「以前は弘法大師開創の真言律宗(真言宗の一派)の金勝寺であった。1254(建長6)年、富木五郎胤継(ときごろうたねつぐ、鎌倉時代の下総国〈現・千葉県〉の豪族)が鎌倉幕府へ参勤の折、日蓮聖人と同船し、仏法の法論を戦わした。その後、帰依(きえ、その力にすがること)した富木公は、日蓮聖人を当寺に参らせ、住職の普識法印に引き合わせた結果、日蓮宗に改めた」
上行寺の本堂
「普識法印の没後、寺は荒廃したものの、北条の武臣で城主の荒井公が当寺で法華経の修行を積んでいたところ、日祐上人(にちゆうじょうにん、鎌倉・南北朝時代の日蓮宗の僧)が当地を巡行、当寺を上行寺と改めて開山し、荒井公に妙法坊と授戒(仏の戒律を授かること)した」
とのこと。
この由来から、上行寺は元は真言宗であったが、日蓮聖人の法論の力により日蓮宗に改宗したということがわかる。
さらに「賭け碁」の話も伝わっていた。金沢区にある真言律宗の称名寺(しょうみょうじ)に祀られる仁王尊像も賭けものの対象になっていた。
金沢区にある称名寺
「ある夜、妙法坊の夢に称名寺の仁王尊が現れ、『汝の信力と怪力にゆだね、我を身延山(みのぶさん、日蓮宗の総本山)に連れて行け』と告げる出来事があった。妙法坊は称名寺の寺主に懇願するも断られたため、囲碁で勝負し、勝てば仁王像を与えるとの約束を得た。
妙法坊は見事勝利し、仁王尊を背負って三日三晩かけて身延山久遠寺(くおんじ)まで運んだと言う。身延山久遠寺では妙法坊の功績に対し日荷上人(にちかじょうにん)という尊称を贈った」
という。
境内には中世の横穴式墳墓も残る
こちらの由緒も、他宗派の大切なものを賭け碁で持ち帰るという、万年寺の梵鐘の話との共通点がある。これは宗教論争で勝ち、相手の宗派の大切なものを戦利品として勝ち取る意味を象徴しているのかもしれない。
日荷上人の墓
日蓮聖人と碁の関係性とは
次に僧侶と碁の関係性について調べてみた。
『奥義秘伝囲碁3000年』という文献には、「1199(建久5)年に玄尊という僧侶が日本最古の棋書という『囲碁式』を著た」とある。
また、『ものと人間の文化史』には、
「公卿(公家社会の役人)の碁の相手に、僧は囲碁を愛好していたといえる。天龍寺塔頭妙智院という京都の寺の第三世和尚・策彦周良(さくげん・しゅうりょう)も同様で、策彦の日記には、『終日囲碁』『深更に及ぶ』とあり、周辺の他山の僧侶も含む囲碁愛好グループがあったという。鹿苑寺(ろくおんじ、京都市にある臨済宗の寺)でも賭碁は通例、賭物は大きかった」
とある。
さらに、賭け碁について、「常に賭け物が提供。上流階級の遊びにふさわしい高価な品だから、負けて無念となる」とあった。
賭け碁は上流階級の遊びだったようだ(フリー画像より)
また文献には、囲碁の名手である本因坊についてもあり、
「我が国の囲碁史上画期的な人。京都府・寂光寺の本因坊算砂(ほんいんぼう・さんさ)は、織田信長が襲われた寺、本能寺の僧・利玄と、棋力においてライバル関係にあった」
という。
昔から僧侶の中に囲碁の名人が多く、賭け物も上流階級の遊びの証しとして出されていたようだ。
山梨県にある日蓮宗の総本山・久遠寺
「改宗」の逸話についても調べてみると、東京大学仏教青年会のホームページに、以下のような記述がある。
「鎌倉時代に入ると、政治の中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展。仏教界でも新しい動きが生じ、その一つは、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗や日蓮の日蓮宗の開宗へとつながった。
日蓮宗は鎌倉新仏教の中では遅く鎌倉時代後期に成立。元寇(げんこう、蒙古襲来)などと社会不安が高まった時代背景を受けて、末法の時代にふさわしい教えを『法華経』に求めた」
とある。
身延山・久遠寺にある日蓮聖人の墓
鎌倉・室町時代にかけて、禅宗・浄土教・日蓮宗などがそれぞれの布教活動を熱心に行っていたようだ。その活動の際に、法論という作法が使われていたのではないだろうか。
最後に、『心が温かくなる日蓮の言葉』という文献には、日蓮聖人が教学を囲碁の手で説明しているものがあった。それは、「囲碁というゲームに『一つの石が死ぬと多くの石が死ぬことになる』四丁がある。一人が成仏すると全てが成仏する『法華経』のようなものだ」というもの。
このように、得意の碁を使った例え話で、他宗派に法論で勝ったのだろうか。
万年寺の正確な場所はわからなかったが、旧道のいずれかが万年寺の参道で、その旧参道に沿った、鷲山のふもとにあったようだ。また、その遺物と類話に調査を進めたことで、多少なりとも廃寺になった経緯が明らかになったと思う。神奈川県の海沿いの金沢区から、内陸の青葉区のお寺にまで、宗教論争にまつわる伝説が残っていることで、宗教論争が華やかな「改宗の戦国時代」の規模の大きさを表しているといえるだろう。
万年寺の鐘は日蓮宗の戦利品?
-終わり-
キッスイノハマッコさん
2020年01月06日 22時54分
これこれ、「はまれぽ」にはこういう記事をもっと載せて欲しいんですよね。古い文献をあさったりして、しっかり深掘りしててほんと面白い。ミステリー小説で謎を解いていくようなこの感じ。店の宣伝とかイベントのレポートも良いんだけど、こういう中身の詰まった記事をこれからもお願いします。
まりん☆ぽらりすさん
2020年01月06日 11時30分
「キニナル」をした者です。日本昔ばなしで唯一の横浜が舞台になっているお話なのでその背景が気になっていました。ちょっとした気持ちで投稿してみたのですが、ここまで調査してくださり感謝です。非常に興味深く拝読いたしました。各地に似たような話が残っているのですね。興味深いです。