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野毛の街の歴史について教えて!【前編】

ココがキニナル!

戦後まもない野毛周辺の街並みが気になる。今もあるお店の中で一番古いのは!?(とっくんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

江戸時代漁村だった野毛は、開港後に人でにぎわい、震災を乗り越え、戦後、焼け野原の野毛に開かれたマーケットをきっかけに、一大繁華街となった

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ライター:永田 ミナミ

活気と混沌と


バラックや板張りなど、手に入る材料で開いた雑多な露店がならぶ闇市は大変なにぎわいを見せていたが、やがて少しずつ、小綺麗な店舗への改装もはじまった。

しかしその一方で、仕事を求めてやってくる人が桜木町駅周辺に集まって浮浪者となり、1948(昭和23)年秋ごろのその数は1200人にのぼった。大岡川には水上生活者が暮らし、至るところで米兵の暴行や略奪が横行し、街娼が立ち、街のあちこちでは賭博がおこなわれるなど、清濁が混沌としながら、しかし熱気と活気を帯びた野毛は確実に復興していった。

 


1953(昭和28)年ごろにもまだ水上ホテルはあった
(「みんなでつくる横浜写真アルバム」より、生駒實氏撮影)

 

マーケットは食料品や日用品など、生活に直結するものを求めての活気だったが、1946(昭和21)年には現在JRAがある場所にマックアーサー劇場が開業、翌年の1947(昭和22)年には隣接して横浜国際劇場が開業するなど、早くから庶民の娯楽も活気づいた。美空ひばりが横浜国際劇場のステージに立ったのは開業の翌年、1948(昭和23)年である。
 


1949(昭和24)年3月3日撮影の、マックアーサー劇場3周年記念写真
(横浜市史資料室所蔵提供)
 

野毛にはほかにも光音座や国際映画劇場など映画館も続々と開業、さらに1948(昭和23)年には横浜国際劇場前付近に場外馬券場が開設し、娯楽はさらに充実した。

 


邦画専門館だった光音座は少し移転し、個性的な映画館へと進化
 

日本貿易博覧会、そして桜木町デパート



1949(昭和24)年3月15日から3ヶ月間、神奈川区反町と野毛山で日本貿易博覧会が開催された。野毛山には児童館、観光館、科学発明館、天文館がならび、科学発明館ではテレビが一般公開された。

 


日本貿易博覧会会場図。左下が野毛会場である(提供:横浜市史資料室)※クリックして拡大
  

反町、野毛山両会場の入場者は360万人、反町会場には天皇皇后両陛下、吉田茂首相、マッカーサー司令官なども訪れるなか、野毛の街の混沌は続いていた。そして、「混沌」の原因は野毛本通りと桜木町駅周辺のマーケットだった。

野毛の発展の原動力となっていたマーケットの解体が、今度は野毛の発展につながると考えられるようになっていたのである。市と露天商たちとの間で長期に渡って続けられていた交渉の結果、1931(昭和26)年、ついにカストリ横丁とクジラ横丁の取り壊しがまとまった。

桜川は埋め立てられ、その上に1953(昭和28)年2月、木造2階建ての桜木町デパートが完成。デパートにはすべてというわけにはいかなかったが、カストリ横丁、クジラ横丁の一部の露店が入居し、営業を再開した。
 


売場面積1190平米、1室3坪、138店舗のほとんどが飲食店だった(提供:横浜市史資料室)
 

ちなみに、入手できたこの写真は、取り壊される直前の1972(昭和47)年の桜木町デパートである。露店の整理のためにつくられた桜木町デパートだったが、1960年代に入ると道路幅を圧迫しているとして問題化し、高度経済成長の波間に消えていったのだった。

桜木町デパートが完成する前年の1952(昭和27)年にはサンフランシスコ平和条約が発効、1955(昭和30)年には伊勢佐木町の野澤屋や有隣堂の接収が解除される。

『なか区 歴史の散歩道 横浜の近代100話』には次のようにある。
「終戦でまんなか(伊勢佐木町周辺のこと)が吸い取られ(接収)ると、こっち(野毛)が復活してきたんです。闇市です。それがまたまんなかが復活して、出来上がった途端、こっちは全部駄目になりましたね」

街を見てきた人たちが言うのだから、そうだったかもしれない。しかし、最近の野毛はまた「復活」しつつあるようにも見える。古い店と新しい店が渾然一体となった、新しい魅力はとてもキニナルところだ。

 


取材を終えて



戦後の野毛にならんだ店は、大きく3種類に分けることができる。明治の開港期から野毛で商売をしてきた店。伊勢佐木町や関内など店があった場所が接収され、野毛に移ってきた店。そして、戦後、人々がその日を生きていくために新しく開いた店である。

接収が解除されて地元に帰っていった店もあれば、野毛に残った店もある。大きな時代の変化を乗り越えて今日も続いている店もあれば、閉めた店もある。戦後の混乱のなかで今日を生き延びるために自分の代だけ、と始めた店が、2代目に受け継がれて今日も暖簾を出していたりもする。

長く続いている店は素晴らしいが、閉めた店にもそれぞれに理由がある。終戦から来年で70年。いつの時代も生き延びていくためにそれぞれの人がそれぞれの選択をするだけである。

開港から関東大震災までが64年、関東大震災から横浜大空襲までが22年。それから69年の間に街の様子も時代も人も生活も大きく変わったが、街が跡形もなくなるほどの困難にあうことない時間が、ともかく野毛に街ができてからいちばん長く続いていることになる。

いつか来る地震は避けられないとしても、戦争はどうにかして避けたいものである。

次回はいよいよ実際に最古の店を訪ね歩く後編。お楽しみに。
 

―終わり―
 

参考文献
『野毛ストーリー』大谷一郎著/神奈川サンケイ新聞社発行/1986
『吞んべえの街から』神奈川新聞社統合編集局報道部編/神奈川新聞社発行/2013
『横浜今昔散歩』原島広至著/中経出版発行/2009
『横浜・中区史』中区制50周年記念事業実行委員会編・発行/1985
『なか区 歴史の散歩道 横浜の近代100話』横浜開港資料館編/神奈川新聞社発行/2007
『図説・横浜の歴史』「図説・横浜の歴史」編集委員会編/横浜市市民局市民情報室広報センター発行/1989
『横浜市史稿 風俗編』横浜市役所編・発行/1931
『横浜市史稿 仏寺編』横浜市役所編・発行/1931
『横浜市史稿 神社編』横浜市役所編・発行/1932
『京浜電気鉄道沿革史』京浜電気鉄道株式会社 杉本寛一編・発行/1949
『横浜の接収と財政』横浜市編/横浜市財政局発行/1953
『市政概要 1953年版』横浜市総務局弘報統計課長篠原賢一編/横浜市役所発行/1954
『昭和の横浜』横浜市史資料室編・発行/2009
『報告書 占領軍のいた街――戦後横浜の出発』公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団近現代史歴史資料課資料室担当編/横浜市史資料室発行/2014



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  • 近現代史系記事はいつも良記事が多いが、その中でも素晴らしい一つだと思う。歴史の流れが目に浮かぶようだ。

  • とても調べこんだレポート!後半も期待しています!

  • 取材ありがとうございます!!後編楽しみにしております!!

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