中区の野毛坂に仏具店が多いのはなぜ?
ココがキニナル!
野毛坂にはなぜ仏具店が多いのでしょう?わずか100m程度の間に数店舗の仏具店が並んでいます。葬儀場があるのは隣の久保山だし、野毛山は関係ないと思うのですが(駅馬車さん、あずきさん)
はまれぽ調査結果!
今は3店しか残っていないが、かつて野毛坂周辺には、葬儀を行う大規模な仏閣があった。そのため門前町として栄え神奈川有数の「仏具の街」を形成した
ライター:河野 哲弥
まずは、現地調査から
言われてみれば野毛坂には、仏具を専門に取り扱う店舗が、軒を並べているイメージがある。実際はどうなのだろう、現地周辺を歩いてみることにした。
こちらは「蓮華堂」の本店。近くに支店あり
野毛坂をさらに登ったところにある「関神仏具店」
各店舗の位置関係。100m以内に3店舗続いている(GoogleMap より)
記憶ではもっと多くの店があったような気がしたが、現在は「蓮華堂」の支店を含む、わずか3店舗のみだった。
ほかの店はどうなってしまったのだろう。今回の質問と共に、両仏具店の店主に話を伺ってみることにしよう。
野毛は「仏具の街」だった?
最初に訪れたのは、野毛地区街づくり会の会長も務める「蓮華堂」の社長、神田信男さん。同店の創業は、戦後間もない1945(昭和20)年とのこと。
闇市があったころから野毛を知る、創業者の神田社長
神田さんによれば、同店が野毛で創業したときには、すでに2軒の仏具店があったそうだ。当時は現在の桜木町駅から野毛坂交差点にかけて闇市が続き、その上に、仏具店が密集していたという。その後、覚えている限りでは最大で7軒の仏具店が軒を並べ、神奈川でも有数の「仏具の街」を形成していたと話す。
では、なぜ同業者が集まったのだろうか。その理由について神田さんは、「当時は横浜で仏事といえば、成田山横浜別院(西区宮田町)で行うことが多く、急な要望にも応えられるために、お寺の近くに仏具店が集中したのでは」という。
実際に神田さんご自身も、大みそかの夜に急な配達が入り、除夜の鐘を聞きながら帰宅したことがあるそうだ。また、現在のように分業化が進んでいなかったため、火葬などの葬儀も、仏閣で行われていたようである。
現在改装中の、「横浜成田山」
大きな仏閣の周辺に「仏具の街」が展開する例は多く、台東区にある浅草寺周辺の仲見世(なかみせ)などが、代表的な一例。では、なぜ現在、3軒にまで減ってきてしまったのだろう。「それには、いくつもの原因があります」と神田さんは続ける。
先ほど、最大で7軒の仏具店があったと書いたが、実際には「蓮華堂」をはじめとした4店舗が同地で支店を徐々に展開し、「仏具の街」を形成していった。しかし、高度成長期を迎えると、神奈川県内の各地にも仏具店が建ち始め、野毛坂は徐々に集客力を失っていったらしい。
そして、2000(平成12)年ごろを境に、支店をたたむ店が増え始めていったそうだ。
また、2004(平成16)年の東急東横線の横浜~桜木町間廃線による影響も大きいという。それまで遠方からわざわざ訪れていた利用客が、廃線を期に、半分ほどにまで減ってしまったという。
一方、客単価の低下傾向も無視できない。かつては身の丈ほどもある大きさの高価な仏壇が売れていたが、今では「家具調仏壇」などの手軽な商品が主流なのだとか。
10万円前後が多い「家具調仏壇」
そう聞くと、経営が成り立っていることの方が、むしろ不思議に思えてくる。
この点を正直にたずねてみたところ、実は仏具店の利用は、必ずしも一般客に限らないそうだ。寺社仏閣から依頼されるさまざまな仏事の道具や仏像、または釣り鐘なども、大きな収益に結びついているという。
値段が付いていない高額商品の数々
「蓮華堂」では、横浜市内にあるとされる約1800の寺のうち、500程度の寺と取引を続けているのだとか。「正倉院展などを見ても分かるように、仏具には、貴重な文化財という側面がある。昔から伝わる技と現代の技術を生かして、少しでも良いものを残していきたい」と神田さんはいう。