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西区TATTOO STUDIOの「三代目 彫よし」とはどんな方?

ココがキニナル!

西区平沼にTATTOO STUDIOがあります。三代目 彫よし と書いてあります。三代目の刺青師がいるんですかね。その方はどんな方なんでしょう?ぜひお話を聞いてください。(きいちさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

初代彫よしさんから襲名された3代目は彫師歴45年の職人。自身はまだ勉強中というが、海外でも個展を開き、世界的に評価を受けている方だった。

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ライター:山口 愛愛

作業場に潜入!細かい動きと繊細な美意識に驚き



彫師の取材は初めてだ。少し緊張しながら電話をしてみると「おもしろいサイトだね。いいですよ、いらっしゃい」とおじさまのやさしい声。なんと仕事場で施術の様子も見せてくれるという。さっそく仕事場へ向かった。

投稿では平沼のスタジオとあったが、指定されたのは西区伊勢町の奥まった小路に建つ民家の2階。だ、大丈夫だろうか。
 


イメージしていた「TATTOO STUDIO」の様子とは異なるのだが・・・


扉の向こうで、三代目彫よしさんが迎えてくれた。「どうぞ~中へ」との声にひと安心。奥には下着姿の男性が座っていた。背中一面に描かれた着物姿の女性がこちらを見つめていて、息をのむ。お客さんのYさんも撮影の快諾をしてくれた。
 


刺青にまつわる資料やコレクションの頭蓋骨に囲まれた3代目彫よしさん


まずは仕事ぶりを見せてもらうことに。下書きをせずに肌に直接彫っていくそうだ。
 


電動で細かい上下運動をするタトゥーマシンで刺青を入れていく
 

針を刺すとインク(墨)が真皮に入る。影をつける技術に腕が問われる


背中の画は「地獄太夫」であった。
「最近はファッションとして模様などを入れる人も多いが、日本の刺青は歌川国吉一門や葛飾北斎などの浮世絵に由来する画が主で、意味があり、日本の文化や精神世界が表現されている。最近はその部分が失われつつあるので、残していきたい」と三代目彫よしさん。

実は彫師でもあったYさんは、この世界で師と仰ぐ「先生に彫っていただきたくて都内から通っている。どんな風に仕上がっていくのか楽しみ」とのこと。週1ペースで26回目の来店という。
痛くないですか?との愚問に「もちろん、痛いですけどこういうものですから」と苦笑い。
 


約45分で左肩の部分を施術。筆で描いたような濃淡がつき深味が増す


Yさんの呼吸や筋肉の動きに合わせて息づく地獄太夫。時には口もとに笑みを称える。複雑な図柄と繊細な美意識に見惚れてしまった。

1日の来客は3人くらいとのこと。次のお客さんが来るまでに、三代目彫よしさん自身のお話を伺った。

――お生まれは?彫師になろうと思ったのはいつ頃ですか?
1946(昭和21)年、静岡の島田市生まれ。小学生のときに銭湯に行って刺青が入っている男を見て、ものすごい衝撃でね。中学を卒業して造船場の溶接工や土木業をやりながら、刺青の写真集を見たり、独学で学んでいました。

――「三代目彫よし」になった経緯は?
「21才のときに初代彫よしを訪ねて、背中に天女の刺青を入れてもらったのがきっかけ。弟子になりたいと思っていたけど、口に出せなくて・・・。背中の天女と龍は初代と二代目の合作なんだ。長年かけて通い、やっとお願いしてね。彫よしを襲名したのが、1979(昭和54)年の33才の時。跡継ぎは実子の二代目だったけど、二代目が勇退したために私が任命され、師匠には逆らえないから引き受けたけど、どんな思いで私に託したのかな。師匠はもう写真(遺影)になっちゃっているからね」

――どうやって練習したのですか?
「両手を使うし、生身の体と他のものの感覚はぜんぜん違うから、自分の脚に入れて練習したね。ただね、足の裏はめちゃくちゃ痛くて、手をゆるめてしまうから、もう刺青は薄くなっちゃったよ(笑)」

―タトゥーコンベンションや個展の開催も多いようですが?
「彫師になって最初に招待されたのが、1985(昭和60)年にローマで行われたコンベンションで、観客の前で彫ったね。ヨーロッパなどでは国がタトゥーを芸術文化として高く評価しているから、このときも招待アーティストの費用などをすべてローマ市が出してくれたよ」
 


サマセット・ハウスでの個展「KOKORO」のパンフレットにて作品の一部を紹介


今年の3月から7月にかけては、ロンドンの『サマセット・ハウス』(歴史ある新古典主義建築物。世界で活躍する、限られた芸術家しか出展できない)で絹などに描いた画の個展が開催され、約2ヶ月で3万人も訪れたそう。
 


絹に施している製作途中の作品。次回の個展で披露される