開館50周年の横浜文化体育館の歴史を教えて!
ココがキニナル!
横浜ビー・コルセアーズの試合で開館50周年とのアナウンスがあった横浜文化体育館。この文体の歴史を調査・紹介を。(ショウ・ザマさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1962年の開館から横浜のスポーツ・文化促進に大きく貢献。時代の流れとともにその役割を変えながら、今も地域に愛される施設だった!
ライター:はまれぽ編集部
1962(昭和37)年に開館し、今年で50周年を迎えた横浜文化体育館。関内駅からほど近い位置にあり、かつては大きなスポーツの大会や有名ミュージシャンのコンサートで多くの人を楽しませた。
今でも地域の人々に愛される横浜文化体育館の歴史を、横浜文化体育館の遠藤勝己館長に伺った。
50年間、関内の街を見守ってきた横浜文化体育館
取材にご協力いただいた遠藤勝己館長
横浜文化体育館の歩み
横浜文化体育館は、横浜港開港100周年の記念事業の一環として建設された。建設費は4億6037万4000円。4年間の建設期間を経て、1962(昭和37)年の5月11日に落成式を迎えた。
敷地面積は1万1014.23平方メートル。競技場面積は1920平方メートルで、ステージは255平方メートル。観客席は5254席だ。管理・運営は、指定管理者である公益財団法人横浜市体育協会が行っている。
落成式の際に行われたオープニングイベントでは、朝丘雪路や楠トシエらによる歌謡ショーや、東京放送管弦楽団による演奏などが行われ、6000人の市民でにぎわったという。
実は、建設工事の期間中に、体育館の屋根がずり落ちて工事が中断するという騒ぎがあった。幸いケガ人は出なかったが、復旧に数カ月を要する事態に。それを乗り越えての落成式だっただけに、関係者の安堵も大きかっただろう。
建設して間もない頃の横浜文化体育館周辺の様子(写真:横浜文化体育館)
同年には港の見える丘公園や港湾病院(当時)なども完成し、街がいよいよ活気に満ちてくる。横浜文化体育館では、開館の2日後にさっそく、市民卓球大会が行われた。
さらにその10日後の5月23日、日本プロレスの力道山の試合が開催された。横浜文化体育館は、その後「プロレスの聖地」として名をはせることになる。
東京オリンピックを皮切りにスポーツ行事が本格化
1964(昭和39)年、東京オリンピックが開幕。横浜文化体育館では、バレーボールとバスケットボールの予選会が行われた。聖火ランナーが体育館前を通過した際には、日の丸の旗を持った観客が大勢つめかけたという。
オリンピックに先駆けて行われた1963(昭和38)年の東京国際スポーツ大会の様子
(写真:横浜文化体育館)
バレーボールチームは当時、「東洋の魔女」と呼ばれる強さで人気を博し、1セットも取られることなく予選を通過。見事、金メダルを獲得した。
女子バレーボールチームは「東洋の魔女」と呼ばれて人気に(写真:横浜文化体育館)
事務所には当時の写真が飾られていた
この頃から各スポーツの大会が数多く開催されるようになる。1965(昭和40)年には全日本実業団柔道大会が、その翌年には世界親善総合武道大会が開催された。
その他の各種武道大会のほか、レスリングやボクシング、ハンドボール、バドミントンなど、さまざまな種目の国際大会が行われた。
また、1967(昭和42)年からは、横浜ゆかりのスポーツ選手や競技関係者を招いて行われる「新春横浜スポーツ人の集い」が開催されている。各スポーツ分野で活躍した選手の表彰や、関係者同士の親睦会などが行われる。
最新の設備によって支えられたスポーツ運営
当時、最新鋭だった設備も注目された。各種スポーツに利用できるように設計された電光式得点表示機や、運営のための主催者専用放送室などが完備され、スポーツ大会のテレビ中継などで活躍した。
電光式得点表示機(写真:横浜文化体育館)
主催者専用放送室(写真:横浜文化体育館)
ミキサー室(写真:横浜文化体育館)
体育館内には、選手や市民のためのトレーニングルームが完備。空調設備やロッカールームなど、利用者が快適な設備が整っていた。
さまざまな競技に対応したトレーニングルーム(写真:横浜文化体育館)
力道山が使用していたというベンチプレスが今も残っている