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権太坂の名前の由来は?

ココがキニナル!

保土ケ谷区に「権太坂」という坂(町名)があります。箱根駅伝では戸塚中継所への難所として知られていますが、なぜ権太なのでしょうか(nobaxさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

権太坂は、耳の遠い農夫またはこの坂を改修した人物、いずれかの者の名前に由来する。

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ライター:ナリタノゾミ

権太坂といえば、箱根駅伝の往路2区の難所として、国道1号沿線の保土ケ谷~戸塚間に存在する坂で知られている。

もっとも、国道一号沿線の権太坂は後に付された名称であり、徳川家康が5つの街道として整備した東海道(現在「旧東海道」と呼ばれる古道)の沿線に存在する権太坂は、国道1号よりやや北側に位置する。
 


青の破線は国道1号沿線の権太坂、赤の破線は旧東海道上の権太坂


旧東海道にある権太坂の碑


保土ケ谷宿は、品川・神奈川・川崎に次ぐ、4番目の宿として、1601(慶長6)年に成立した。江戸時代、神奈川県内における東海道中の難所は、箱根の山道のほか、保土ケ谷~戸塚間の「権太坂」と、戸塚~藤沢間の「大坂」の急勾配だといわれていたそうだ。
 


旧東海道の権太坂を見上げる
 

戸塚区の大坂を見上げる


戸塚宿は保土ケ谷宿に次ぐ宿として、1604(慶長9)年に成立した。日本橋から約10里(約40km)の場所に位置する戸塚宿までは、旅人が日本橋を早朝にスタートし、おおよそ1日でたどり着く距離だったという。

したがって、日本橋から西を目指す旅人にとって、権太坂と大坂に備えて保土ケ谷宿で一泊するか、それとも、1日で権太坂までを上りきり、戸塚宿で一泊してから次の日の大坂に備えるかが、旅計画1日目のポイントとなったに違いない。

ちなみに、江戸時代後期の劇作家・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本で、1802(享和2)年から出版されていた「東海道中膝栗毛」において、主人公の弥次郎兵衛と喜多八は、保土ケ谷宿の旅籠(はたご)屋の客引き女性とそれをあしらう旅人の駆け引きを見物した後、次の戸塚宿を目指している。二人は1日目の旅を保土ケ谷宿ではなく戸塚宿で終えたようだ。

作中では、真っ白い白粉(おしろい)を塗って、「井」の字の模様の施された前掛けを締めた保土ケ谷の旅籠屋の女性が、強引に客引きをしている様子が描かれている。
 


保土ケ谷宿の本陣跡(保土ケ谷町1丁目)。
本陣とは公用の宿泊施設。幕府の役人や参勤交代の大名しか泊まれない
 

水屋脇本陣跡(保土ケ谷町1丁目)。保土ケ谷宿には、藤屋・水屋・大金子屋の脇本陣があった。
本陣の混雑時、役人や大名はこのいずれかに泊まった
 

旅籠・本金子屋跡(保土ケ谷町1丁目)。一般人は旅籠屋に泊まった。
当建物は1869(明治2)年に建て替えられたもの


なお、保土ケ谷宿の旅籠屋の数は、1800(寛政12)年で37軒、1842(天保13)年で69軒だったそうだ。国道1号沿いに設置されたパネルによると、1860年代にもなると、現在の保土ケ谷1丁目には、東海道をはさんで、複数の店舗が軒を連ねていたようである。

 

1864(元治元年)年の調査に基づき、その頃の軒並みが想像復元されたパネル
(国道1号沿い、保土ケ谷町1丁目に設置)


日本橋から保土ケ谷までの道のりは、ほぼ平坦だったというが、元町橋(保土ケ谷町3丁目)を渡ったあたりから、長く険しい坂、権太坂が始まる。

 

元町橋。保土ケ谷本陣ができる前の宿場町は、
このあたりにあったことから「元」町という名称がついたようだ


「権太坂」という名称が広まったのは江戸時代。それまでは、別の名称で呼ばれていたようだ。現在の名称が広まった理由はどこにあるのか。旧東海道に存在する権太坂とその周辺を調査した。

現在の名称が広まった経緯には、この坂がかつて多くの死者を出すほどの旅の難所であったことが深く関わってくる。