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権太坂の名前の由来は?

ココがキニナル!

保土ケ谷区に「権太坂」という坂(町名)があります。箱根駅伝では戸塚中継所への難所として知られていますが、なぜ権太なのでしょうか(nobaxさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

権太坂は、耳の遠い農夫またはこの坂を改修した人物、いずれかの者の名前に由来する。

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ライター:ナリタノゾミ

行き倒れる旅人や馬

権太坂を上りきり、境木中学校前のT字路を国道1号方面へ曲がると、左手に花の手向けられた、「投込塚之跡」の碑(権太坂2丁目)を見つけることができる。

昭和30年代、当地区開発の際に、偶然、地中から人や馬の骨が発見された。
その後の調査により、権太坂を上りきれず行き倒れた人や動物の亡骸を投げ込むための井戸が、このあたりにあったことが特定される。
当碑は、亡くなった者の霊を慰めるために建てられたものである。

 

1964(昭和39)年に建立された、「投込塚之跡」の碑。
人骨は平戸町の東福寺に埋葬されているそうだ


権太坂の急勾配は、馬車に積んだ荷物を降ろさなければ上れないほどであったという。天気が悪く、足元が滑りやすい日には、滑落する者もいた。日本橋から西へ向かう道のりの最初の難所とされていた権太坂は、たびたび行き倒れる者が出るほどの急勾配だったのだ。

ところで、この坂に権太坂という名称がつく前、この坂は2つに区切られ、「一番坂」・「二番坂」と呼ばれていた(もっとも、正確な区切り場所がどこかは定かでない)。

1828(文政11)年に成立した地誌「新編武藏風土記稿」には、「海道の内にて元町の南の方なり、其地形十丈あまりも高く、屈曲にして長き坂なり、故に街道往返の人夫此所を難所とす、昔は一番坂と呼しが、何の頃か旅人爰を過ぎるとて、側にありし老農に坂の名を問いしに、かの翁耳しひたる者なりしかば、己が名を問われしと思ひ権太坂と答へけるより坂の名となりしと土人云傳へり」と記されている。

すなわち、もともとは「一番坂」・「二番坂」と呼ばれていた坂であったが、ある旅人が「一番坂」を上りきったところで、「急勾配で長い坂道ですね。この坂は何という名前なのですか」と、そばにいた農夫に尋ねたところ、その者の耳が遠く、自分の名前を尋ねられたものと勘違いして「(私の名前は)権太です」と答えたがために、「権太坂」と伝えられるようになったようだ・・・というのが、「新編武藏風土記稿」の記すところである。
 


夕暮れ時、権太坂から街を見下ろす


もっとも、権太坂の名前の由来については、もう一説存在する。
足場の悪い坂を改修した藤田権左衛門という人物の名前にちなみ、「権左坂」と呼ばれていたものが、時を経て、「権太坂」に変わったのではないかと推測する説だ。
 


何度かの改修を経た現在の権太坂。もちろん、普通に歩いていて滑落するほどの勾配はない


なお、いずれの説が真実なのかは、調査によっても明らかではない。



茶屋での一服を至福とした旅人たち

さて、権太坂を上りきると、境木地蔵尊前(境木本町2丁目)に武蔵国と相模国の国境が現れる。
 


境木地蔵尊。腰越海岸に漂着した地蔵が江戸に運ばれる途中、
この地を気に入ったため、ここにお堂を建てることにした、という伝説がある
 

国境を示すモニュメント(平成17年に設置)。
地名である「境木」は、両国の「国境」にちなんでいる
 

境木地蔵尊のケヤキの大木が木陰を作り、旅人の疲れを癒した


権太坂を上りきった旅人たちの休憩場所としてにぎわったのが、境木の立場(平戸3丁目)だ。この場所から、西には富士、東には江戸湾を望むことができたという。

また、過酷な旅路の疲れを癒すご褒美として、旅人たちから愛されていたのが、この周辺に軒を並べていた茶屋で提供する牡丹餅と焼餅であった。

 

境木の立場茶屋の中でも一際立派な門を構え、
大名なども立ち寄ったとされる若林家(現在は民家)


体力を奪う急勾配の権太坂と、それを乗り越えた後に待っている絶景により、餅のうまさは倍増したのであろう。いつしか、この立場から戸塚方面へ下る坂は、「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と名付けられた。この坂の途中にも焼餅や牡丹餅を提供する茶屋が並んだそうだ。

なお、江戸時代初期の仮名草子作家・浅井了意(りょうい)の「東海道名所記」の中で、主人公の楽阿弥が、初めてこの地に来る者は坂の名称になっているほど有名な焼餅を食べるべきだ、と語っている。このくだりは、同所の焼餅が江戸時代初期から名物であったことを物語っている。
 


焼餅坂を戸塚方面へと下る。
この高台からの景色を楽しみながら、旅人たちは餅を食べたのだろう


焼餅坂を下り終えると、今度は品濃坂を上ることになる。
なお、品濃坂の途中にある「品濃一里塚」は、神奈川県で唯一、道の両側の塚がほぼ設置当初のままで残っていることから、1966(昭和41)年には県の史跡に認定されている。
 


焼餅坂を下った後、品濃坂を上る。
改修されていない頃は、さぞかし過酷なアップダウンであったろう
 

日本橋から9番目の一里塚・品濃一里塚。大木の根に守られている




取材を終えて

日本橋を出発した旅人が、西へ向かう道中で最初の難所として恐れた権太坂。
投込塚の存在や境木の茶屋町の発展は、この坂がいかに過酷なものであったかを物語っている。

名前の由来とされる二つの説のうち、どちらが真実なのかは定かでない。
もっとも、「一番坂」・「二番坂」という特徴のない名称から、人名にちなむ個性的な名称を得たのは、あまりにも過酷なこの坂に個性的でインパクトのある名前がふさわしいと考えた旅人たちが、それを広めたからかもしれない。


―終わり―

 

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  • 坂の名前や地名にはいわゆる民間語源説が、はばをきかせているが、真実から遠いものが多い。東京の有楽町が織田有楽斎の屋敷があったというようなものだ(実際は有楽斎は江戸に行ったこともないようだ。)。坂には「ゴン」がつくものが多いのはなぜか?権太坂、権之助坂などが、浦島が丘近くにも類似の坂(名)があった。昔、坂を荷物を運ぶのは難儀であり、運ぶのを手伝ったり、荷車を押したりする人を、「ゴンタ」と言った。権太坂はそのような人がいた場所を、呼び、定着したものではなかったか、という説が唱えられている(横浜地名研究会の会長の櫻井澄夫説)。傾聴に値する新説だと思う。

  • 坂の名を聞かれた農夫は漢字まで教えたとも思えない。権太の字は後に考えられたものでしょうね。

  • 権太坂のある保土ヶ谷から戸塚へ抜ける一帯の山の険しさは、旧東海道に沿って走る東海道本線が箱根の手前までで唯一トンネルを掘らなければならなかったことからも想像できます(清水谷戸トンネル)。本題からずれますが、権太坂が上りなら下り坂になる(戸塚側の)品濃坂も、あまりの急坂ぶりが「佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」と謡曲・鉢の木にちなんで川柳に詠まれた場所だったとも言われています(今は半分現存せず…)。この一帯は今では明るく開けてしまっていますが、30年ほど前までは旧道の両側にうっそうとした森など、険しさが想像できる場所がまだ残っていました。

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