かつて高島町に遊郭があったってホント?
ココがキニナル!
横浜駅東口の崎陽軒から南側一帯には、かつて遊郭があったと聞きました。横浜の遊郭といえば港崎遊郭が有名ですが、こんなところにも遊郭が?(象の鼻さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「かつてあった遊郭」とは港崎遊郭が火災で焼失、1866年大火で羽衣町へ移転したが1871年の火災で焼失、1872年高島町に移ったもの
ライター:橘 アリー
今も残されている遊郭の石灯籠!
キニナル投稿にあるように、横浜の遊郭と言うと、「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」が有名である。
港崎遊郭は、現在の横浜公園の場所にあった。
横浜公園内の様子
横浜公園内にはスタジアムがあり、一見、遊郭があったという名残りはなさそうだが、公園の隅に日本庭園があり、そこに港崎遊郭があったことが残されている。
公園内の日本庭園付近の様子
港崎遊郭の名残りは、遊郭にあったという石灯籠。
港崎遊郭にあったという石灯籠
石灯籠の前には、由来が書かれた看板があり、それによると、この一帯は1859(安政6)年に埋め立てられ、開港後、港崎町と名付けられ、その中に「岩亀楼(がんきろう)」などの華やかな遊女の店が作られたが1866(慶応2)年の大火で焼失し、跡地が公園に。
石灯籠は明治初期のころのものと思われ、刻まれている文字から「岩亀楼」のものだとわかる。いつのころかいったん南区三春台の妙音寺に移され、その後、妙音寺から横浜市に寄贈された。
汚れて読みづらくなってしまっている看板
このように、港崎遊郭の名残りは横浜公園に残されている。では、JR横浜駅東口の遊郭があったという場所には、何か遊郭に関係ありそうなものが残されているのだろうか。
現地へ行ってみることに。
現地に名残りはあるのだろうか?
JR横浜駅東口の崎陽軒から南側一帯を歩いてみた。
崎陽軒近辺の様子
駅前なので、たくさんの自転車が停められ、オフィスビル、ホテル、マンションなどが立ち並んでいる。
“遊郭があった”というような雰囲気は全くない。
崎陽軒の横の道の様子
万里橋近辺の様子
海側から見た万里橋方面の様子
国道に架かる陸橋の上から見た横浜駅方面の様子
どこを歩いても、遊郭があった名残りは見つからなかった。
現地には調査の手がかりになるものがないので、図書館などの資料で調査してみることに。
火災により高島町に移転した!?
まずは、横浜に遊郭が作られた理由について触れておくことに。
「図説・横浜の歴史」に遊郭について記されている
横浜市市民局市民情報室広報センターが発行している「図説・横浜の歴史」によると、横浜が開港場として選ばれたことにより、道や建物の建設により職人や労働者が集まり、商人が店を構え、外国人の渡来など、横浜に多くの人がやって来るようになった。
そうなると、人が集まる所に欠かせないのが、遊興(ゆうきょう)場。
芝居や相撲などの興行も行われたが、横浜開港直後の1859(安政6)年6月10日に、運上所(現:神奈川県庁付近)の脇に外国人貸長屋があり、そこの一画で遊女屋が仮営業をしはじめた。
県庁の一画にある運上所跡の記念碑
その後、同年の12月には埋め立て地である太田屋新田地内(現在の横浜公園)に、遊郭街港崎町が作られた。
横浜開港期の歴史については、横浜開港資料館が詳しいので閲覧室で調べようと思ったが、横浜開港資料館は2014(平成26)年3月31日までエレベーター改修工事で休館。
そこで、横浜開港資料館のホームページから、館報「開港のひろば」のバックナンバーで調べてみた。
港崎遊郭は、1859(安政6)年に設けられ、1866(慶応2)年大火で焼失し、羽衣町周辺に移転。そして、そこも1871(明治4)年の火災で焼失し、1872(明治5)年 に高島町へ移転。さらに、1877(明治10)年に真金町・永楽町へ移転した、と記載されていた。
投稿者の言っていた「横浜駅東口にかつてあった遊郭」とは港崎遊郭が移転をしたものだったと思われる。
「開港のひろば」バックナンバー2007(平成19年)8月1日発行
また、「目で見る横浜の100年(編集:横浜開港資料館・横浜都市発展記念館)」にも、高島町が遊郭地としてにぎわっていたと記されていた。
「文明開化期の横浜・東京」
当時の高島町の様子
これで、高島町に遊郭があったとわかった。さらに詳しく港崎遊郭が移転した経緯を伺うことに。
西区の戸部に「岩亀横丁」と呼ばれている地域があり、数年前の「はま旅戸部編」で「港崎遊郭」のなかでも特に華やかだった遊女がいる店「岩亀楼」の遊女の供養が行われている「岩亀稲荷」を見たので、そこへ行ってみることにした。