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横浜の奥座敷、かつて西区にあった幻の温泉宿「鉄温泉」ってどんなところ?

ココがキニナル!

昔、横濱市内に「鉄温泉」というのがあったそう。関東学院・三春台の道路を挟んだ向かい側にあったようで。一説には「岡場所(歓楽街)であった」とか。調査お願いします(華山舞之介さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

創業1885(明治18)年、伊藤博文が名付けたと言われる「鉄温泉」の界わいは著名人や名士らの別荘などがあった様相で今から約30年前に解体

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ライター:ほしば あずみ

幻の温泉宿をさぐる



南区三春台の関東学院中学校・高等学校の向かい側にあったという「鉄温泉」。
1981(昭和56)年刊行の『グラフィック“西”―目で見る西区の今昔(西区郷土史研究会編集)』に、その様子が載っている。
 


とはいえ、看板と屋根の一部が映っているだけ
 

手前の看板は「創業明治十八年/鐡温泉/宿」と読める


この本にはこの2枚の写真のみで、「鉄温泉」に関する説明は一言もない。『グラフィック“西”』発行より少し前、1970(昭和45)年の住宅地図を確認してみると、確かに関東学院の向かい側に「鉄温泉」の文字が見える。
 


「旅館 鉄温泉」の文字と4棟の建物


『宮本武蔵』や『新平家物語』で知られる作家、吉川英治は横浜で生まれ、市内で何度か転居している。彼が9歳のころには、「鉄温泉」の近くに引越しており、自伝的随筆『忘れ残りの記』で付近の様子と共にその名前が登場する。1901(明治34)年のことである。

「ぼくの家は、赤門とよぶ寺の山門通りに面した角地であった。(中略)家の前は広い三叉路で、北へいくと、鉄温泉とよぶ鉱泉宿があった。」(吉川英治『忘れ残りの記』より)
 


「赤門とよぶ寺」とは「東福寺」のこと
 

Googleマップで位置関係を示すとこのような感じ、西区と中区と南区の境目だった


『忘れ残りの記』によると、当時吉川英治の住んだ家の周辺は「清水町」という名前で、その名のとおり、戸部山や久保山から流れてくるきれいな小川が流れ、「どの家の門にも、その家だけの小さな橋がかかっていた」という。

であれば、地下からの湧き水である鉱泉が湧いていても不思議ではない。
だが、記述はこれだけで、どのような宿だったのかまではわからない。

「鉄温泉」があった場所は今どのようになっているのか、現地へ向かってみた。
 


鉄温泉跡地へ



京浜急行「黄金町」駅から徒歩数分で、現在は赤門町という住所になっている吉川英治旧宅付近を通過。
 


吉川英治の家があった付近。左側が東福寺の赤門方向


小川の流れていたおもかげはないが、足元のマンホールからは水が流れる音が聞こえる。
 


「鉄温泉」があった場所は駐車場と民家になっている


近所の方(50代男性)に話を伺ってみた。「鉄温泉が閉まったのはいつだったか・・・ずいぶん前だよ。由緒ある旅館だってね、伊藤博文が名づけ親だとか」

「ずいぶん前」というのが具体的にどれほど前なのか、つっこんで聞いてみたが、思いだせないとのこと。
それにしても、伊藤博文?
 


いわずとしれた初代内閣総理大臣(国立国会図書館所蔵)


なぜ伊藤博文が唐突に登場するのか。その理由を尋ねてみたが、「どうしてなのかはわからないけど・・・」と男性は知らない様子。だが、
「詳しいことは、所有者に聞いてみるのが確実だと思うよ」と、なんと鉄温泉の所有者を教えていただいた。

「鉄温泉」を経営していたAさん(仮名)の奥さんである、B子さん(仮名)と、ご子息Cさん(仮名)にお話しをうかがう(旅館経営をしていない現在、一般の生活を送っているため仮名、および顔出しはNG)。