横浜の奥座敷、かつて西区にあった幻の温泉宿「鉄温泉」ってどんなところ?
ココがキニナル!
昔、横濱市内に「鉄温泉」というのがあったそう。関東学院・三春台の道路を挟んだ向かい側にあったようで。一説には「岡場所(歓楽街)であった」とか。調査お願いします(華山舞之介さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
創業1885(明治18)年、伊藤博文が名付けたと言われる「鉄温泉」の界わいは著名人や名士らの別荘などがあった様相で今から約30年前に解体
ライター:ほしば あずみ
創業は1885(明治18)年?
『グラフィック“西”』の看板写真には「創業明治十八年」とある
かつて料理に添えられていた挨拶状にも「創業明治十八年」(年代不明)
1885年創業の根拠は、今となっては不明だというCさん。
「一番最初の鉄温泉を所有していたのが誰なのかはわからないんです。新潟出身の祖父と小田原出身の祖母が結婚して、何かの縁で鉄温泉の所有を受け継ぐようになった・・・古い話なので、それがいつごろでどんな事情だったか知る人はいません」
最初の商売も、温泉宿ではなく酒屋か油屋か何かだったとも言われており、その由緒は東福寺の朱塗りの山門ができるより前、という話もあったという。ちなみに東福寺の山門が現在のような赤門になったのは幕末かそれ以降といわれている。
1955(昭和30)年の「鉄温泉」看板
「この辺りは、浅いところを地下水が通っていて、少し掘るとすぐに水が上ってくる。鉄分を含んだ鉄鉱泉で、赤い水です。私が聞いた話では、当初、“鉄鉱泉”という名前で温泉宿をしていたところ、伊藤博文が近くに滞在したことがあり、そこに一筆もらいに行ったと。すると、『“鉄鉱泉”では響きが悪いから鉄温泉としなさい』と言われたそうで、それが伊藤博文が名付けたという由来、ということです」とCさん。
かつて黄金町駅にあったと思われる案内板(年代不明)
伊藤博文が「鉄温泉」を定宿にしていたのか、実際に泊まったのかも定かでない。だが訪れていても不思議ではない環境だった。
実は明治時代から関東大震災前まで、この界わいがお屋敷町だった様子は前述の『忘れ残りの記』や、1897(明治30)年にこの地に生まれた作家、大佛次郎の随筆にも記されている。
「生家は赤門寺のすぐそばにあった。静かな住宅がならんでいてね、(中略)旧士族で巡査になった人とか、アメリカ帰りのモダンな医者とかいう、ちょっと変わった人たちが家の近所に住んでいて、子供心になんとなく興味をひかれたね。」(大佛次郎『“霧笛”を生んだ波止場情緒』より)
「その頃の著名人として伊藤痴遊(ちゆう)の家が、ぼくの家から広い三叉路をへだてた向かい側にあった。ぼくらが兵隊山とよんでいた山の崖をうしろにして見越しの松に船板塀といった構えの住居であった。事実、妾宅であったのかもわからない。」(吉川英治『忘れ残りの記』より)
※伊藤痴遊(1867~1938)・・・明治から昭和初期にかけて活躍した講談師、政治家。
現在50代のCさんも、「子どものころに遊んでいた向かいの広大な空地が、巨大な灯篭や庭石などのお屋敷だった痕跡があり、地域の人がその空地を『キンショウエン(錦祥園?)』と呼んでいたことを覚えているという。
震災前までは、横浜の奥座敷として、著名人や名士らが別荘やあるいは妾宅を構えていた、そんな地の温泉宿だった様子が想像される。
凝った門が印象的なアプローチ。年代は不明(戦後)
戦後の経営はCさんの父Aさんと、18歳で嫁いできたB子さんが、Aさんの母や妹と共に担った。
「宿は離れ家造りで、1階2部屋に2階2部屋の棟が二つ並び、岩石で組んだ風呂付きの部屋と石風呂のあった棟があり、母屋の2階が宴会のできる広間になっていました」
とCさん。岩風呂をいくつか増設したり、離れの2階と母屋の2階を渡り廊下でつないだり、といった増設もしながら、京風の趣ある和風旅館であり続けた。
京都の修学院離宮式の鰐口灯篭(わにぐちとうろう)
今見ても隠れ処のような雰囲気の離れ家造り(戦後。年代不明)
Aさんは外国語大学を卒業し、終戦時は連合国軍の高官の通訳をしていたという。だが庭の造作も職人任せにせず自ら手を入れたり、料理も独自の創作料理の腕を振るい評判をとったりするなど、大変器用だったようだ。
凝った灯篭のデザインも職人に誂(あつら)えさせたもの(年代不明)
名物、鮎の陶土焼き。2人前1尾だった
「ある時、鮎の陶土焼きを5つ6つ割ってしまってお客に出せないからと食べさせてもらった」ことを覚えているというCさん。とても美味しかったそうだ。
ある時の朝食メニューの一例
1985(昭和60)年、一泊2食で1万2000円だった
家族で経営していたため、Aさんが病に倒れ入院してからは旅館を閉めざるをえず、他界したのちに解体、更地にした。28、9年ほど前のことだという。
取材を終えて
歴史を明治時代まで遡る温泉宿が、少し前まで存在した。だが旅館が姿を消すと周辺の記憶からも消えていく。横浜の奥座敷だった名残は、周辺にも残っていない。
B子さん宅に残る、「鉄温泉」の鬼瓦
震災や戦災を経て町の姿を大きく変えていった横浜。その中のところどころに、「鉄温泉」のように時を超えた存在があり、ひそやかに町の記憶をとどめているのかもしれない。
―終わり―
viva平塚さん
2016年02月04日 18時03分
近所なのにさっぱり憶えてねぇ
しなのやさん
2014年10月28日 22時33分
この記事を見て鉄温泉の跡地へ行きました。駐車場の端にしつらえられたお社は鉄温泉と関係があるのでしょうか?
toshikunさん
2014年03月03日 17時56分
三春台が実家でなんでこんなところに温泉がとずっと思っていました。80年代に入ってまだやってたのですね、行けばよかった...。更地にしたのはもう少し後だったような気もしますが。