「ハマスタ」誕生前には「野外音楽堂」があった? 「横浜公園」の歴史について教えて!
ココがキニナル!
横浜公園には昔、横浜野外音楽堂なるものがあったそうです。今後横浜に野外音楽堂のようなものは作らないのでしょうか。野外で音楽を楽しめるスペースが横浜にもあればいいなと思います。(Ichiさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
野外音楽堂をつくる計画はないが、野外音楽堂で行われていたイベントは、横浜スタジアムで引き継げるよう設計された
ライター:ほしば あずみ
ハマの野音とは?
野外音楽堂といえば、東京の日比谷公園にある「日比谷野外大音楽堂」が有名だが、同じようなものが横浜公園にもあったのだろうか。
横浜市の公園を管轄する環境整備局に問い合わせてみると、野外音楽堂があったのは1977(昭和52)年まで。現在の横浜スタジアム建設にともない撤去されたとのこと。野外音楽堂のようなものを作る計画は現在ないという。
1965~1966(昭和40~41)年に発行されたパンフレット『市の施設のあんない』
野外音楽堂が紹介されている
『市の施設のあんない』に基づいてそのあらましを追うと、野外音楽堂は1929(昭和4)年に関東大震災の復興事業として建設されたもの。終戦後は進駐軍の接収を受け、1952(昭和27)年に接収解除されてからは改修工事を経て利用されていたらしい。
写真の「プロムナードコンサート」は市の主催で毎年7月から9月にかけて開催されていた。アメリカ軍や神奈川県警、消防局、学校や職場の音楽団体の演奏が20~30公演行われ、入場は無料だった。
野外音楽堂の全景(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)
建物の構造は鉄骨コンクリート一部2階建て。ステージ面積は495㎡だった。日比谷野外大音楽堂のステージ面積は214㎡、みなとみらいホール(大ホール)は290㎡なので、かなり広々とした舞台だったことがうかがえる。
収容人員は2600(改修前は3400)人、階段状の客席で600席、立見2000席となっており、観客側の立場だと現在のコンサート事情にはやや見合わない気がする。
ちなみに、日比谷野外音楽堂は2664席、立見450席、ほか車椅子スペースとなっている。
音楽堂でのコンサートの様子(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)
プロのコンサートもたびたび行われ、取り壊し前には「ヨコハマ野音最後の日」と銘うって、カルメン・マキ&OZ、柳ジョージ&レイニーウッドらがスペシャルライブを行った記録が残っている。
横浜公園の歴史をふりかえる
横浜公園はこれまでにも何度か紹介しているように、(「かつて高島町に遊郭があったってホント?」、「JR桜木町駅周辺に存在した幻の島「姥島」って!?」)かつて港崎(みよざき、のちに、こうざき)遊郭と呼ばれた「遊郭」があった場所。
横浜公園内でその歴史を伝えるモニュメント
横浜開港にともない1859(安政6)年、幕府の主導で建設された遊郭は、江戸の吉原遊郭に倣(なら)った構造で、長崎の丸山遊郭に倣った外国人接客をしていたといわれている。外国人は羅紗緬(らしゃめん)と呼ばれた外国人専用の公娼しか選べなかった。
横浜港案内図絵の港崎遊郭
(五雲亭貞秀(ごうんていさだひで)1860<万延元>年/横浜中央市中央図書館所蔵)
港崎の中でも際立って優美だった「岩亀楼」。有吉佐和子の小説および戯曲『ふるあめりかに袖はぬらさじ(亀遊の死)』は、港崎遊郭の名主であった岩槻屋(がんきや)佐吉が営む「岩亀楼」の羅紗緬、喜遊(亀遊)を描いている。
華やかだった時代の「岩亀楼」は、昼間は見物料をとって老若男女が訪れる観光地であり、浮世絵にも幾度となく描かれている。
「横浜岩亀見込之図」(ニ代広重1860<万延元>年/横浜中央市中央図書館所蔵)
だが、1867(慶応2)年、港崎遊郭の南側にあった豚肉屋鉄五郎宅から発生した火災、いわゆる「豚屋火事」が大火となって遊郭を焼き尽くした。この火事によって関内の外国人居留区は4分の1を、日本人街は3分の1を焼失。堀で囲まれ出入り口は橋がかかった1ヶ所しかなかった同地では、逃げ遅れた遊女らが400人以上命を落としたという。
港崎町遊廓の花見の様子(五雲亭貞秀1860<万延元>年/横浜中央市中央図書館所蔵)
開港からわずか7年で起きた悲劇は、開港場における防災面の都市整備を見直す教訓となった。遊郭はその後、関外の吉田新田、高島町、真金町ほかへ転々とする。港崎遊郭があった場所は火除け地として公園とし、公園から海まで防火帯となる幅広の道路を設けた。これが横浜公園と日本大通の誕生となる。