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大船で100年以上も駅弁を販売している老舗「大船軒」の鯵(あじ)の押寿しって?

ココがキニナル!

JR大船駅の売店で売られている「鯵の押寿し」は、大船軒さんが大正2年から作ってるそうですが、大船と鯵が結び付きません。何故「鯵」なの?(brooksさん、yakisabazushiさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

大船軒は明治31年創業。大正2年発売の鯵(あじ)の押寿しは、当時、江の島近海で多く獲れた鯵を使って開発した。現在もその味が継承されている。

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ライター:大和田 敏子

地域の特産品などを使い、それぞれに工夫が凝らされた駅弁は旅の楽しみのひとつだ。
ところで、大船駅で有名な駅弁、鯵の押寿し。投稿者と同じく、「なぜ大船駅で鯵?」「大船の特産品って鯵なの?」と疑問を持っている方も少なくないと思う。
実は、この鯵の押寿しを製造・販売している大船軒は長い歴史のある会社なのだという。ぜひ、大船軒にその歴史をうかがい、鯵の押寿しについての疑問を解決したい。

早速、大船軒本社に向かうことにした。
JR大船駅で下車。
 


大船駅南口の大船軒の販売店。大船駅にはほかにも1ヶ所販売所がある

 
大船軒は、神奈川県内の多くの駅や東京駅、新宿駅など都内の主要駅構内に販売所を持っている。
 


大船駅は横浜市と鎌倉市の境にあるが、大船軒は西口側、鎌倉市にある
 

途中、大船観音が間近に見える

 
徒歩5分ほどで大船軒本社に到着。
 


本社は1931(昭和6)年建築のレトロな建物!


広報担当者、企画グループ担当者のお二人に、お話をうかがうことができた。



創業116年 大船軒の歴史!



大船軒の創業は1898(明治31)年、今年で116年を迎える歴史ある会社だ。
創業者の富岡周蔵氏は、大船駅前で旅館業を営んでいたが、駅構内で駅弁を販売することを思い立ち、駅構内での販売を申請した。
 


明治30年代の大船駅。大船駅の開業は1888(明治21)年(写真提供:大船軒)

 
ちなみに駅弁屋さんには、元々旅館だったところが多いそう。駅近くにある旅館では宿泊客の食事を提供していたので、鉄道が開通し駅ができると、そこに弁当を持ち込んで販売することが可能だったため、こぞって旅館が駅弁に進出していったという流れがあるようだと、担当者は話す。
 


明治時代、周蔵氏の営んでいた旅館(写真提供:大船軒)

 
大船軒創業の翌年の1899(明治32)年、周蔵氏は親交があった元首相黒田清隆から勧められて、駅でサンドイッチの販売を始める。日本で最初の駅弁サンドイッチだった。
当時のサラリーマンの1ヶ月の給料は18円、米1升15銭という時代。サンドイッチは20銭と、かなり高価だったようだ。お弁当12銭、お茶・ラムネ3銭、おまんじゅう1銭、卵2~3銭 リンゴ2~3銭といった記録も残っている。
 


富岡周蔵氏、1862(文久2)年生まれ(写真提供:大船軒)

 
サンドイッチに使用するハムは、はじめは、他社から仕入れたものを使用していたが、売れ行きが好調になり生産が間に合わなくなると、自社でのハム製造に踏み切った。どのようにハム製造を始めたのかは不明だが、周蔵氏自身は職人気質ではなく、実業家としての資質を持った人だったそうで、ハムの職人を呼んだか、自社から現場に派遣して学ばせたのではないかと担当者の方々は考えているという。その後、大船軒ではハム部門を独立させ、「鎌倉ハム富岡商会」を設立し、本格的に鎌倉発祥のハムブランドのひとつ「鎌倉ハム」の製造を始めた。
 


「サンドウィッチ」。昭和初期から中期ごろのもの(写真提供:大船軒)

 
大船軒に続くように、日本中の駅でサンドイッチが売られるようになると、周蔵氏は、次の展開を模索する。
そこで着目したのが、当時、江の島近海で湧くように獲れていた鯵。これを使って駅弁として販売できないかと試行錯誤を重ねた。
駅弁という性質上、日持ちがするようにと寿司にし、形が崩れないよう工夫した結果、江戸前寿司のように握って、関西風のバッテラのように最後に押して仕上げるという製法にたどり着いた。
身の締まった小鯵を使い、半身で1貫という贅沢な鯵の押寿しは、サンドイッチにも増して人気を集めていった。
 


鯵の押寿し。昭和初期から中期ごろのもの(写真提供:大船軒)

 
1923(大正12)年の関東大震災の際は、駅との関わりが深かった大船軒は駅職員に宿舎と食事を提供し、一般の旅客にも無償で炊き出しを行ったという。

1931(昭和6)年、大船軒は株式会社となり、新社屋が落成した。
この建物は、現在も本社事務所として使用されている。内装などは大きく変えているものの、大きな改修はしておらず、内部には当時の名残りが見られる。
 


大船軒社屋、昭和初期(写真提供:大船軒)

 
工場兼事務所であったこの建物には、衛生面や効率面からさまざまな工夫が凝らされていた。
壁は真っ黒で、通路の先が細くなっていた。これは、虫が入らないようにするためのものだったそう。
また、当時は電気が簡単に使える時代ではなかったため、日中、明るくしておくために天窓がつけられていた。山の部分をくり抜くような形で、自然の冷気を利用した冷蔵庫も作られていたようだ。
 


大船軒玄関、昭和初期(写真提供:大船軒)
 

現在の大船軒玄関と照明器具

 
昭和の時代と比較すると、階段上天井のアーチ型、右手に見える飾り窓、照明器具も当時のまま残されているのがわかる。
 


左は昭和初期の写真。現在も狭い通路はそのまま、天窓も残されている
 

山に埋め込むように作られていた冷蔵庫の跡